、記念品とかいただけしかみあたらなかった。折紙大の新聞紙の切れはしは、ありふれた証券日報のふるいのであり何の暗示めいた文字も見当らなかった。口紅は金色のケースにはいっていた。闇屋から買ったらしく高価なアメリカ製であったが、底を右にまわすと、びっくりするような牡丹色があらわれた。私は思わずふき出すと同時に、軽い失望を感じた。この色は、自分の好みと凡そはなれたものであった。然し、彼は、金色のケースと牡丹色とを好んでいるように思った。それは、あのお好み焼の重量感と似通っていた。彼はきっと多くの種類の中から特にこの色を選んだにちがいなかった。私は、彼の心根を嬉しく受け取ることが出来た。
 帰宅の折、私はその色を口の上に丹念にぬった。私の唇は、ぎらぎらとどぎつく光った。そして小使い室で荷物をまとめている大岡少年のところへもう一度会いに行った。
「さっき、ありがとう。お元気でね。出張してかえって来ることが度々あるわよ。その時、又会いましょうね。私、何にもあげるものないし、月給日が明後日で、お財布もさみしいのよ。だけど、これ、あげるわ」
 私は、ハンドバッグの中の小さな鏡を彼に手渡した。出張すると、髪の毛をのばしてよい命令が降りるのである。彼は、素直に受けとって、簡単に、サイナラと云った。私の顔をみながら、口紅の色に気がついたのやらつかないのやら、無感動無表情であった。
 帰り途。私は、ふっとかなしいものが胸の奥底から湧き上ってくるのを感じた。
 翌日から、又いつもの通り、朝早く出勤して掃除をした。彼の贈り物の口紅は、どうしてもつける気がしなかった。日本製の安物の目立たない赤さの方を私は好んでいた。
 会社の生活は毎日きまったようなことばかりであった。仕事にすっかり馴れてしまうとそのうちにやっぱり自分を強く意識しはじめるようになって来た。私は時々机に倚ったままぼんやり考えることをはじめた。その都度叱られながら、だんだん来客や電話に怠慢になって来た。会計課の老人が、お札を三度も四度も数え直すことや、一銭でも神経を使って、ビリビリ叱言を言ったり、不用になった紙切れまできちんとピンでとめ、しまいこんでいることや、営業課の若い人達が、耳に鉛筆をはさんで、朝から晩まで算盤をがちゃがちゃ云わせたり、カーボン紙を四五枚はさんで、ガリガリ鳴らして積出しの書類に数字をかきこんだりすることや、輸出部ではサンプルのコストをタイプで幾部も打ちこんだり、又、秘書の老嬢は、要領よく社長の車を私用に使ったり、重役は、昔からの習慣で、もみ手とぺこぺこ腰をさげることを誰に対してもやってみせたり、若い女の子はお化粧の方法と俳優の好き嫌いを暇があれば喋り合っていることや、少年達は、一番いそがしく自転車使いや労働をしながらその合間に、ターザンや西部劇の真似をやったり、それに社長は、時々、昼間っから、妾宅へ出かけて行ったり――これは秘書がのこらず知っており、私は特別の恩沢をうけて拝聴させられるのである――名前をきいても黙っている女の人から電話がきたり……。
 こんなことの毎日が、私にとって大へんな興味であったのに、だんだんそれは何でもないことになって来て、ただ一人だけ、分家氏の一挙手一投足が私の注意をひいていた。
 ある夕方、彼が白痴のような口許に、火のついていない煙草をくわえてぶらぶら街を歩いているのに出遇った。ポケットにいつも手をつっこんでいた。両脚を外側へ出し、お腹をつき出して歩く癖があった。遠くからすぐに彼だと判明した。私は、会社から帰りであったので、一応髪の毛をときなおし、少し化粧をしていた。ややして彼は私に気がついた。
「かえりか、会社終ったんか」
 横柄に問うた。私は笑ってうなずいた。
「ついてこい」
 彼は命じた。私は二三歩後を女中のような気持になって大人しく従った。露地を二つ三つまがって奥まった格子戸の家の前へ来た。彼は、さっさと靴をぬいで――決して紐をとくことをしなかった。――座敷の方へあがった。私は躊躇して玄関でたっていた。
「ふみ、ふみ居るか……」
 頭髪をきれいにアップにゆいあげた若い女中が、べたべたとお白粉をぬりたくった顔を廊下からひょいと出し、分家氏と私とに愛想のよい笑いを送った。
「酒、してくれ……あがれ」
 私と彼女に一度に彼は命令した。私はうすぐろくなったサンダルを隅っこの方にならべると女中の招じる部屋、つまり彼がどっかりあぐらをかいている六畳の青畳の上へ近よった。
「はいってこんか」
 私は真中の朱塗りの机の手前にちんまりすわった。
「煙草吸うんやろ、わかっとる」
 彼は、白いセロファンの下に、くっきり赤い丸のある煙草の箱をポケットから放り出した。私は一本つまんで口にくわえた。
「ふん」
 彼は、笑いとも溜息ともつかないものをはくと、わざわざ自分のライターを私の顔に近づけてくれた。夕飯にはまだ少しはやかったので、御客は他に誰もいなかった。バラック立の安ぶしんの天井から、白い障子ばりの電燈の笠が目立ってうつくしかった。とっくりと、小さな鉢とお箸がまもなく運ばれた。先刻の女中が、彼と私とにお酒をついだ。
「おいふみ。これに云うなよ」
 彼は親指をみせた。社長のことだと感知した。
「おまえも黙っとれ」
 私にむかって上目使いに命令した。私は私と彼が差向いで御酒をのんでいる様子がとてつもなくおかしいものに思われてにやにやしていた。彼は多くは喋らなかった。私も黙って後から運ばれて来たおすしを食べた。ほんのり酔いを感じた。
「分家さん、何で御馳走してくれはんの」
 私は、わざと大阪弁を使って問うた。
「ふふん」
 彼は満足げに笑っていた。彼のとろんとした目がだんだん鋭くすわって来た。外がうすぐらくなり電気が点いた。
「おおきにごちそうさん。私、かえらしてもらいます」
 私は両手をついて会釈した。
「かえらさへんぞ」
 彼は私をきっと睨めつけた。そうしていきなり私の手を机の上でひっぱった。おちょくとお箸がころがった。
 それから、あの青や黄や赤のごてごてにぬられた表紙絵の大衆雑誌の小説と同じような情景が私の傍で、しかも私もふくみこんで行われようとした。私は抵抗した。朱塗の机はがたがたと隅の方へ押しやられていた。
「分家さん、はなして、はなしてよ」
 私は小声でそう云った。木綿の洋服の脇のスナップが音をたててはずれた。
「いやらしいひと、やめて」
 私は精一ぱいの力を出して彼の腕をつかみ彼の上体を押しのけた。そんなことが二三度くりかえされた。急に彼はおじけたように部屋の隅にあおむけにころがった。
「ふん、大岡とやりおったくせに、ちゃんと知っとるぞ」
 私はいきなりむらむらと怒りがこみあげた。
「分家さん、冗談にもそんなこと、いやな」
 気弱になった彼に私はがみがみと云った。
「ふん」
 彼は例の口許から例の発音をした。
「分家さん、さ、かえりましょう。みっともない。まだうすあかるいしするのに。それに、ええ奥さんがおってやないの」
 私は、彼を精神的変質者であろうと、もともと思っていた。私は彼の手をひっぱって起した。彼は私のするままにしていた。私は、ワイシャツの釦をかけ、ネクタイを結びなおしてあげた。彼の奥さんは気性の勝った人でひどいヒステリーであることを秘書からきいていた。彼が又、彼の奥さんの云うなりになっていることも知っていた。彼はいい年をして子供っぽい面を持っており、さみしがっている様子に私は同情していた。私は酔いしびれた彼の手をひっぱって玄関へ降りた。
「くく、くつべら」
 彼は怒鳴った。私は、ほっとした思いで手早く彼の右のズボンのポケットから、くつべらを出して彼の足を靴の中へすべりこませた。
 翌日、彼はおひる頃ふらふら出社した。私は熱いお茶を濃い目にいれて机の傍へ持って行った。彼は何も云わず、又私の顔をみもしなかった。私は今までより一層彼のために気を使って忠実に働いた。会社の人達から唯社長の弟であるというだけに思われ、全くの無能力者である軽蔑をたえずうけていることにあわれみを持っていたわる気持を行動にあらわした。
 会社の生活は、私の一日の大部分を占領しており、家族と殆ど疎遠になっていた。いつの間にか、姉が恋愛をしており、それが結婚まで発展するようになって、私ははじめて自分の家での自分の位置に気がつくようになった。それは冬近い日曜と祭日のつづいた頃である。姉は華燭の典をあげた。相手は金持ちの青年紳士であった。

     第八章

 突然、私は自分がいろいろなことに抵抗して生きていることを苦痛に思った。ある日、雨がかなり降っている午後であった。雨の日は来客が比校的少なくて受付は閑散であった。不要になった書類を裏がえして、いたずら書をしていた時のことである。殆ど突発的に私は自分の力がなくなってしまったことに気付いた。空虚な日常のように思えた。ロボットのような自分であると考えた。今まで逆流の中に身をささえて力強く給仕をしているとみせかけていたことが滑稽になって来た。わざわざ抵抗しなくてもよいものを。そうすることは自分からわざわざ苦痛を受けようとしていることなのだ。
 衝動的に、私は死への誘惑を感じた。分家氏への愛情も凡そ無駄なナンセンスなことである。姉への嫉妬――私は姉が自分の意志を通して、幸福(これはその時そう感じたにすぎないが)な結婚をしたことに対して無性に腹立しく思っていた。私には恋愛すら出来ない。人を愛しても私は愛されない。愛される資格のようなものは皆無である。姉は容姿も美しく、頭脳だってきびきびしている。それに、女らしさと女のする仕事を何でもやってのける。きちんと学校を卒業し、体だって丈夫になっている。それにどうだ。私ときたら学校も中途半端。給仕という職務にたずさわっており、しかも優しさだとか献身的な愛情をこれっぱかしも持っていない。――これすら馬鹿げ果てている。
 私は会社がひけるとあの未亡人の家を訪れた。
「おばさん、私は又死にたくなっちゃった。もう何もかもいや。私、本当に何にも執着ないの、欲求もないの、自分がみじめすぎるわ、これ以上生きてくことは。それは無駄ね。私もう働くこともいやだし、じっと静かに考えることもいや。自然を眺めてることだって出来ないし、人と接触して、愛したりすることも私には大儀なのよ。死んじまう。さっぱりするわ」
 彼女は、私の上っついた言葉をはくのに優しいまなざしでみまもっていてくれた。
「あなたのいいようになさいよ」
 彼女は私に煙草をすすめ、自分も長い煙管でゆるやかな煙をはいた。私は、ピアノの蓋を乱暴にあけると、ショパンの別れの曲を弾き出した。感傷じみた自分の行為が喜劇的に思われた。私は同じモチーフのくりかえしを何度もつづけながら
「全く複雑のようで簡単ね。死ぬ人の心理なんて。死ぬ動機だって一言で云いあらわせてよ。死にたいから死ぬの。何故って? 理窟づけられないわ。生理的よ。衝動的よ。泣く、笑う、死ぬ、みんな同じだわ。他愛のない所作でしょうよ」
 ピアノの音と自分のはき出す言葉とが、堪えられなくなると私はパタンと蓋をしめ、いそいで帰る支度をはじめた。
「おばさん、さよなら。きみちゃん、さよなら」
 きみちゃんとは私の級友。彼女は始めから終りまで黙っていた。
 オーヴァーの襟をたてて電車にのり、五分して電車を降り、薬屋へよった。「劇」とかいてある赤印の薬を四十錠買って家へ戻った。
 私はほがらかに一人おくれて食事を済ませた。狭い一人の部屋にはいると机の中から便箋を取り出した。最後の芝居がしたかった。私は架空の愛人への手紙をかいた。私の死因が失恋であるように自分をしたて上げた。いろんな、ラヴ・ストーリーの中から、気のきいた言葉を抽出しそれを羅列した。架空の愛人はいろんな人になった。ひんまがった口許や、脂ぎった肩や脊や、道づれの大きな瞳の学生や、自分の知っておらない顔までが、そのイリュージョンの中にあった。
 私は、さいころをふった。たった一つのさいころを、奇数が出たら、私は即座に薬をのもうと自分に云いき
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