。私の口からは御念仏が自然にもれた。母はのりとをあげていた。今度こそ焼け死ぬだろうと思った。私はみにくい死体を想像した。焼けこげになったもの、水ぶくれになったもの、裸のもの、衣服がちぎれて肉体にひっついているもの、私は既に多くの死体を目撃していた。霊魂を信じなければと私は思っていた。私は自分の死体の中から離れてゆくものを想像した。それは、まっ黒のたどんによく似たものであった。水晶のように光り輝いている魂ではなかった。私は必死になって念仏を唱えながら、そのたどんの黒さがうすらんで来、だんだん透明になるような気がして来た。私はひるまず、「ナンマンダブ」をとなえた。ふっと我にかえった時、あたりは静かになって来ていた。飛行機は去り、炸裂音も、その間隔がだんだん長くなって、思い出したように、あちこちで鋭い音を発し、わずかな震動が身体にひびいた。
 私は死からまぬがれたことを知った。私は念仏を中止した。その日、私達の家族はちりぢりになって二、三人ずつ人の家に泊った。私は体の節々の痛みを忘れてぐっすり眠りつづけた。
 翌日、やっと一軒の疎開後の空屋に父母姉妹と叔母家族と一しょに移り住んだ。七人の遠い親類は田舎の方へ別れて行った。空虚な生活がはじまった。一週間、言葉を発することも厭うようにお互に顔をみるだけでいた。姉も弟も従姉も病気になった。疲労と極度の恐怖から食事をすることも出来ない有様であった。ソ聯が反対側に加わり、原子爆弾が広島と長崎に落ち、そして敗戦の日が来た。十四日の晩に父は家族を集めてそのことを伝えた。私達は更に何も語らなかった。深い感動もなかった。私は、戦争が終ったということをそんなに喜びもしなかった。私の生命に青信号が与えられたかも知れないが、戦争にこじつけて、ある精神的な苦痛の忘却や逃避も容易に可能であったし、考えなければならない自己の行動をそのまま放って置くことを平気でしていたのが、急に、時間や心の余裕が生まれたので、それが、かなり自分自身をみつめることを強いたのだ。私は、それが決して喜びではなかった。かえって大きな苦痛であった。今まで少し考え少し苦しみ、それにはっきりとした解釈をつけないままに通して来た。戦争が、中途半端な結論しか私に持つことをゆるさなかった。仏教に対しても、死に対しても、つきつめるだけつきつめることは出来なかった。それは、案外、楽なことであった。私は、ここで自分が何を為すべきかを考えねばならなかった。
 私の父は銃殺されるかもしれないと云った。そして神経衰弱に罹ったように、絶えずいらいらしていた。確かに沈鬱な家庭であった。大豆をゴリゴリひいたり、道端の草をゆでたり、そんなこと以外はお互に何か考えているような表情で笑いもなく毎日を送った。
 一カ月して兄が帰り、そのことだけは皆喜んだ。私は暇な時間を嫌った。学校がはじまった。校長や主任教師の演説は耳に入らなかった。全くそれは滑稽なほどおろおろした宙に浮いた話であった。英語が復活し、焼けのこった講堂を四つに仕切って授業が行われた。然し、焼跡作業や、壕くずし、(一年前に血みどろになってこしらえたもの)や防空設備のいろいろな物体をこわすことが殆どの日中の時間をしめていた。
 選挙でもってふたたび幹事になった私は、仕方なくよく働かねばならなかった。私は数珠を持ち念仏を唱えていた。それは考えることをする前の空虚さを満たす努力でもあった。読書もするようになった。しかしそれは一向に頭にはいらなかった。学校の行きかえりの電車は大へんな混雑であり、窓から乗り降りすることが何度もあった。荒々しい感情が街にみなぎっていた。しかしその中に虚無的な香りもかなり強かった。私はぎゅうぎゅう体を押されながら、人の談話をかなしい気持できいていた。だんだん家庭内では落ちつきと静けさがただようようになった。父は公職追放されただけで、銃殺など懸念することはなかった。週に一度句会をやり、その日はたのしみの一つであった。又、その借家にピアノが置かれていた。私は楽譜なしに、その時その時だけのメロディをつくってたのしんだ。けれど二カ月位してその家の主が帰って来るというので、私達は会社の寮にしていたある御邸の部屋を間借りすることになった。もともと私達の家庭では親子の間でも感情を抑制する躾がほどこされているようであったから、親類と同居するようになってもさして気兼に感じないで生活出来た。目前にやって来る冬支度や、命日の食べ物のやりくりやらで秋の夜長はどんどん過ぎて行った。戦後日がたつにつれ、私は考えるようになって来た。自分の生活に目的がないことはさみしいことだと思った。当時、もう尼になり度いとは思わなくなっていた。何故なら私は非常に人間愛に渇え、人間を愛したいとばかり思うようになっていたのだ。人と人との接触の
前へ 次へ
全34ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング