要でもなかった。未だ、批判力もなく解釈づけることも出来なかったわけだ。それより他に私に与えられたあるものがあった。私の心の動き方はすっかり変り、そしてほぼ、定められるようになったのだ。それは仏教というまるで今まで無関心な世界である。
担任の先生が真宗の熱心な信者であった。私は忽然と南無阿弥陀仏に魅かれて行った。南無阿弥陀仏を唱えることによって、私は救われるのだ。私はいろんな苦難からのがれられるのだと思い込んだ。しかし、私は、私の行って来た盗みや、横暴なふるまいに対して懺悔しようとか、詫びようとかいう気持は少しも起らなかった。唯、私は、ひたすらに称号を唱え、ひそかに数珠を持つようになった。私の家の宗教の禅宗と、私がはいりかけた信仰の真宗とが、どんな立場であるかは全く未知であったから、私は法事で御寺へ詣っても、南無阿弥陀仏をとなえた。教理を知ろうとしても知る術もなく、又、本をよんでもわかる筈は勿論なかった。やさしく書いた名僧伝などをよむ位で、それも、その奇話や珍話にひかれたのかも知れない。尼僧の生活にあこがれを抱きはじめた。それまで、自分は大人になったら何になろうかなど、少しも考えていなかったから、私の最初の希望が、剃髪入門である。西行を愛していた私が、この時、更に深く彼に傾倒しはじめたのは云うまでもない。山家集を註釈づきでよみはじめた。もののあわれということが、はっきりつかめないままにも何かしら、悲しいのでもなく、落胆でもなく、しょげかえるものでもない。意味の深いものであるように、その輪郭をぼんやりながらつかみかけた。西行法師は私の心の中に随分根をおろした。そして私は真剣になって尼さんになろうと決心していた。
私は人と没交渉になってしまった。隣の彼女も私とはなれた。一度、彼女の家へ遊びに行った折、私のあげたハンカチーフが、しわくちゃになって屑箱にほうりこまれてあるのを発見した。私は瞬間、非常に悲しい気持になったけれど、決して彼女を恨みもせず、それが必然的なように思えて自然彼女から遠のいてしまった。私は学業にはげむ時よりも、仏教のことをかんがえている時間の方が更に長く、ひとりぼっちになっても平気でさみしがらなかった。
人からどんなに侮りをうけても嘲笑されても、一つのことを信じておれば心は常に平静であり動揺する気配さえ全くないことを私は自分に発見出来た。人は私を変り者だとか、てらっているだとか、傲慢だとかいろんな解釈をつけて非難した。数珠を腕にからませることは、みっともないとも母に云われた。しかし、かえって人々の反対が、私の信仰を強くしたのかも知れない。とにかく、半年の間は、私は迷うことさえしなかった。
第四章
卒業式が来た。感傷的な別れの歌の旋律や、読み上げられる言葉などに、私のまわりの女の子はしくしくと泣き出した。私は涙さえ忘れていた。人が別れたり或いは死んだりすることは当然の出来事のように思われていたのだ。小学校の門を出てすぐに入学試験が行われた。それは日だまりがまだ恋しい気候であった。私は近所の私立の学校へ受験した。姉と別の、程度の低い学校であった。山の中腹にある新しい建築の歴史の浅い学校であった。
襞の多い長い紺色のスカートを着た女学生が、私達を順番に面接の部屋へ案内してくれた。彼女達は何故か不潔に見えた。前へかがみながらゆっくり歩く姿勢や、うすい膜をはった中から出すようなその音声や、やたらに止ピンの多い長い髪の毛などが、優美である筈なのに私には不潔なものだとしか思えなかった。口答試問ばかりで四つの部屋があり、第一の部屋が、校長の面接であった。
「何故、この学校を選びましたか」
私は即座に近いからだと答えた。彼は苦笑した。めでたく入学出来てからきいたのであるが、近いから来たと云ったのは私一人で、それが随分無礼なことだったらしい。
数学の問題は案の定間違えた。膝の上へ数字を指でかきながらやっと云いなおして、よろしいと云われた。後はだいたい出来たようであった。
合格発表もみにゆかなかった。落ちる不安は全くなかったからである。四月になって手提げカバンを持ち家から十分とかからない女学校へ毎日通い出した。朝、私は皆が登校する二時間前に学校へ来ていた。ぞろぞろ並んで歩くことは非常な苦痛であったからだ。そうして、しんとした教室へ鞄を置くと一段と高いところにある運動場へのぼり、朝礼台に寐そべって、街をみおろした。つまりそれは健康な習慣であったのだ。私は、強い信念や高い誇を更に増すことが出来た。広い場所に一人で、乱雑な街を大手ひろげて抱くことが、私にとって又新しく起った英雄的な喜びであった。しかし、その男性のような強がりな気持と、数珠を持ち阿弥陀にすがる気持とが、両極から私をしめつけて来て苦しみ出しはじめたのは
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