た。私は、ここで自分が何を為すべきかを考えねばならなかった。
 私の父は銃殺されるかもしれないと云った。そして神経衰弱に罹ったように、絶えずいらいらしていた。確かに沈鬱な家庭であった。大豆をゴリゴリひいたり、道端の草をゆでたり、そんなこと以外はお互に何か考えているような表情で笑いもなく毎日を送った。
 一カ月して兄が帰り、そのことだけは皆喜んだ。私は暇な時間を嫌った。学校がはじまった。校長や主任教師の演説は耳に入らなかった。全くそれは滑稽なほどおろおろした宙に浮いた話であった。英語が復活し、焼けのこった講堂を四つに仕切って授業が行われた。然し、焼跡作業や、壕くずし、(一年前に血みどろになってこしらえたもの)や防空設備のいろいろな物体をこわすことが殆どの日中の時間をしめていた。
 選挙でもってふたたび幹事になった私は、仕方なくよく働かねばならなかった。私は数珠を持ち念仏を唱えていた。それは考えることをする前の空虚さを満たす努力でもあった。読書もするようになった。しかしそれは一向に頭にはいらなかった。学校の行きかえりの電車は大へんな混雑であり、窓から乗り降りすることが何度もあった。荒々しい感情が街にみなぎっていた。しかしその中に虚無的な香りもかなり強かった。私はぎゅうぎゅう体を押されながら、人の談話をかなしい気持できいていた。だんだん家庭内では落ちつきと静けさがただようようになった。父は公職追放されただけで、銃殺など懸念することはなかった。週に一度句会をやり、その日はたのしみの一つであった。又、その借家にピアノが置かれていた。私は楽譜なしに、その時その時だけのメロディをつくってたのしんだ。けれど二カ月位してその家の主が帰って来るというので、私達は会社の寮にしていたある御邸の部屋を間借りすることになった。もともと私達の家庭では親子の間でも感情を抑制する躾がほどこされているようであったから、親類と同居するようになってもさして気兼に感じないで生活出来た。目前にやって来る冬支度や、命日の食べ物のやりくりやらで秋の夜長はどんどん過ぎて行った。戦後日がたつにつれ、私は考えるようになって来た。自分の生活に目的がないことはさみしいことだと思った。当時、もう尼になり度いとは思わなくなっていた。何故なら私は非常に人間愛に渇え、人間を愛したいとばかり思うようになっていたのだ。人と人との接触の
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