それだけは真似したいとは思わなかった。私の家が仏教であり、しかし仏壇はなく、――何故なら、本家に位牌が安置されておりそこで毎月法要がいとなまれていた――そのかわり、母が金光教信者であったから、二階の北の間は神様の部屋と呼ばれ、祭壇があった。そして、小さい時から、私達子供は神様のおかげで生きているとされ、毎朝毎夕、柏手をうっていた。で、カトリックというものがどんなものだか知らず、きっと幼稚園の時のように、長いお祈りがあるものと、はじめっから嫌悪していた。彼女はたびたび教会へ行くことを勧誘した。きれいなカードがもらえるとか、マザーがお菓子をくれるとか。けれど私は好きな彼女の云うことのうち、これだけは承知しなかった。アリーのおかげと例の悪事露見の影響か――悪事という言葉に私はいささかの反駁がないのではないけれど、衆目の認めるところそれはやはり悪事にちがいないのだ――私は大人しい子になった。遊び時間、アリーと私は校庭の隅っこでコチョコチョ話しこんだ。私のゆめみたいな話をアリーは喜んできいてくれた。彼女の糸切歯と目立って大きい頬のほくろを私は毎日あかず眺めていた。
 規則をみだすことは、アリーがきらっていた。だから私は、次第に従順な子供になって行った。教場でも大人しくなり、宿題もきちんとして来るようになった。家へかえると、本ばかりよんでいた。私は西洋のおとぎ話より、講談ものを好んだ。さむらいや、悪者やおひめ様や町人の娘が、血を流したり、殺されたりするのが面白かった。それから、永年愛読したのは、相馬御風の、一茶さんや、良寛さんや、西行さん、であり、西行法師は、清水次郎長と共に熱愛した。
 父は俳句を詠み、絵をたしなんだ。私や他の兄弟は、句会に列席して、俳句をつくったり、何かの紀念日には、掛軸や額の大きさの紙に、寄書をした。父は私を殊に愛してくれた。夕方、玄関のベルがなると、みんな一斉に出迎えにゆく。
「ボビは?」
 私が少しでもおくれてゆくと、父はそう問うていた。毎日出迎えに行くのが億劫で、一度、卵のからに、墨で顔をかき、五つ並べて玄関に置いていた。
「今日は、出迎えしないでいいの」
 そう云って、皆に出むかえを禁じた。父が帰って来て、それに立腹し、母は、私の似顔が上手だとほめてくれた。しかし、翌日からは、元通り、畳に手をついて御挨拶し、父の帽子を帽子掛に飛び上ってかけた。
 
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