たのです。私はその時、何故か、ふっと、ひきもどしたい気持にもなり、そして又、ほっとしたようでもあるのです。私は又、原稿のつづきをかきました。鉄路のほとりから再び電話、また少し遅くなるからとのことでした。私は、六時から、レコード何を注文してもいいので、ブラームス四番を注文しました。このシンフォニーは、私が、一番好きなシンフォニーでした。さて、店の女の子が長時間をかけはじめようとし、私はペンをおき目をつぶりました。ところが最初の絃の八小節がかからなかったのです。針のおき具合がわるかったのでしょう。もう私は、気がいらいらして、全曲終る迄、殆どきいてませんでした。不愉快な曲だとさえ思った位です。ブラームスが終り、私の原稿も終りました。次はフィガロの結婚がかかりはじめました。その頃、鉄路のほとりがやって来たのです。私は、むかいの席にすわった彼を、静かなまなざしで見上げることが出来なかった。私の黒部行の気持と、彼への愛情いや愛着とが、ものすごいスピードで頭の中をまわります。黒部行の気持のはたらきは、彼に真実を訴えようとすることの他に、一切の日常事からはなれたかった理由があります。家庭のこと。そうです。私はもう、家庭でのジェスチュアをつづけることが不可能になって来ていたのです。疲れて来たのです。それによい仕事が出来ないことも、書けないことも原因だったのです。生きてることにしたら、又|掩《おお》いかぶさってくる。それらのこと。それらの重さ。私は、彼に云いました。黒部へ一しょに行って下さいと。ああ小母様。私は何ということを云っちまったのでしょう。洩らしたのでしょう。彼の幸せに、彼の未来に、罪深いとるにたらない私が、遮断機をおろすことになるんです。私達は、喫茶店を出ました。私の荷物、つまり原稿と、ミローのレコードと、青白き大佐に渡すべく借りていた品々。それを預けて。重い足どりでした。私達は、屋台のめし屋へはいって、かす汁をのみました。それから駅の近所へ来ました。彼は、電報をうつと云うのです。私は、黒部へ行ってくれるのだと解釈したのです。ところが、彼は自宅あてには打ちませんでした。その夜何か会があるらしく、ゆけないという電報でした。それでも私は黒部へ一しょに行ってくれるものと信じました。十時半の汽車まで、まだ三時間あまりあります。
(小母様、私の愛用の万年筆のペン先が折れました。)私と彼は、無言のまま歩きはじめました。北の方へむかって。何も云いませんでした。そして、大きな橋まで来ました。下は汽車の線路です。煙があがって来、とても寒い風がふいて居りました。彼は口をきりました。ひどいことを云って、本当にすまなかった、と。私はその言葉を、まるで期待していなかったのです、私は驚きました。そして途端。死ねなくなるのじゃないかと思いました。私達は又歩きはじめました。何分位歩いたでしょうか。鉄路のほとりは、急に云ったのです。僕と結婚してくれますか、と。それは私にとって、期待していたことだけれど、少しも、その言葉をきけるものとは思っていなかったのです。私はもう、何もかも捨てて、彼だけで生きることが出来ると思いました。私は喜びしかありませんでした。不安も苦悩も、そうです、小母様、私はその時、罪悪感も何もかも、家庭のことも、仕事のこともすっかりなかったのです。私達は、長い間歩きました。小母様、この日、私は本当に幸せだと思いました。私は、何の疑いも何の迷いもなく、彼の愛情をそのまま感じ信じたのです。私はうれしいと云いました。本当に嬉しいでした。私達は時間がたつことを暫く忘れて居りました。私は、けれど、やがて、今日家へ戻る自分を、ほんとに情けない気持で想像したのです。私は、帰りたくないと申しました。でも、鉄路のほとりは、私に帰るようにと云いました。十時半前、大阪駅に戻りました。汽車には、まだ間に合うのです。でも私は、黒部へ行こうとは勿諭思いませんでした。私は鉄路のほとりと別れて、神戸へむかいました。そして知合いに出あい、彼にさそわれて、焼鳥屋へのみに行ったりして、帰ったのです。小母様。だけど一歩家の中へはいった私は、又、重い石を頭にのっけられたような、いやな気持になったのです。淀んだ川瀬から、救い出してほしい。誰か救い出してほしい。私は疲れ切っていました。小母様、鉄路のほとりに、私の今の立場を救い出してほしいとは云いかねるのです。彼は生活がゆたかではありませんし、今のようなお互いの気持に、現実的な問題をどうして取上げられましょうか。その夜も、兄のことで、父母は何かぽそぽそ云ってましたし、私はすぐに寐床へはいり、とても、苦しい気持になったのです。一刻も早く。私は、重石をとりのぞかせるような状態まで、自分を持ってゆきたいと。私はその夜あれこれと随分考えました。彼とのこと。それ
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