からだ。ところが、蓬莱和子の方は、こいつは男がいるんだなと思ったのだ。
「いいわね、おたのしみでしょう」
 南原杉子はますます苦笑した。
「東京はよろしいですわね。で女子大でも」
「いいえ、とんでもない」
「あら、……。私、戦前はよく東京へまいりましたのよ。日比谷、なつかしいですわ。あのさ、御菓子召しあがって、私、とてもあなたが好きになりましたわ。御ぐしの恰好、チャーミングですわね」
 南原杉子の方からは、何一言きくすきまがない。だが、きこうともしないでも、蓬莱和子は心に秘密しておくことが出来ない性質《たち》の人だと、彼女は察していた。案の定、
「お菓子おきらい? ビールお飲みにならない」
「のみましょう」
 で、二人はぐっとのみ、その後、蓬莱和子はますます喋りだした。二十年前に、自分は関西の学習院と云われている阪神間の学校を卒業し、すぐに結婚、今は、戦災にあった邸跡に、二軒家をたてて兄夫婦の家族と別棟に、住んでいる。里の両親は、戦後、相ついで死んだのだが、関西では有名な金持で、宮中の侍従武官某氏や、元外務大臣某氏と親類である。ピアノは二台とも土蔵にあって焼けのこり、その一台をここへ運んで来ている。自宅では、小さい子供に歌を教えている。夫の月給が少ないので、こんな店をはじめた始末。三年になる。それ等のことを蓬莱和子はいかにも斜陽族の現実のかなしさをふくめて喋った。
「谷山さんのお弟子の発表会が近くありますのよ。六ちゃんとききにいらして下さいね」
 やっと一段落すんだようだ。しかし、最後に出た仁科六郎の名前。それから又急テンポで蓬莱和子は喋りはじめた。
「六ちゃんとは、私は十年前からの知合いですの。とてもいい人で、あなたも御附合なさるといいことよ。私、とてもあの人好きなんですよ。あの人もね。私を好きなんですって。でもねエ、ホホホホ」
 いよいよ終りを告げるのかと、南原杉子は一息ついた。が、
「私ね、あなた、好きですわ。あなたの感じ、素晴しいわ、仲良くなりましょうね。一度、六ちゃんと三人で飲みましょうよ。私、うれしいわ。あなたのような方に御会い出来て」
 南原杉子は目の前に白い手を発見した。握手を求められたのだ。南原杉子は無造作に手をさしのべた。へんな感触だと思った。年増女のひからびた中に案外粘りっこい色気を感じたのだ。
「お子さんなくて、おさみしくありません?」
 南原杉子は、テーブルの下でハンカチを出し、へんな感触のあとを処理しながらたずねた。
「あら、ない方が楽ですわ。でも何故ないって御気付きになったの」
「わかりますわ、お若いですもの」
 話は終った。南原杉子はカレワラを出た。非常にこころよい。ビールのせいか。蓬莱和子の饒舌のせいか。いや、南原杉子は、ビールの味も長い饒舌も忘れていた。こころよいのは何故だろう。彼女自身仲々気がつかない。電車通りをすぎ、紡績会社の方へ曲った時、彼女は、そのこころよさが何であるか発見した。それは、仁科六郎の存在である。

     三

「ねえ、女史はよしてね」
「どうして突然そんなこと云いだした?」
「あなたは、仲々仮面を取りはずさないみたいよ。だから、私まで女史を意識しなきゃいけないみたいで嫌《いや》。(早く生の彼を発見したいものだわ)」
「じゃあ何て呼ぼう」
「阿難」
「アナン、それ愛称?」
「ううん。誰も阿難とは呼ばないわ。私、ひとりで阿難って自分に名前つけてるの(実は今ふと思いついた名前なのだ。阿難陀は男だったかしら)」
「どうして」
「何となく」
 仁科六郎は両腕に力をいれて、小麦色の肩のあたりを無意識にかんだ。抱かれているのは南原杉子である。
「ねえ、どうして此処へはいったのでしょう」
「わからない」
「あなたらしくないこたえね」
「もののはずみなんだ」
「ますますあなたらしくないわ。(先手をうたれたようだ)もののはずみって度々生じるんでしょう。しかも特定の対象に限らないのだ」
「じゃあ君はどうなんだ」
「阿難と云ってよ。私はもののはずみじゃない(本当はもののはずみかしら)」
「計画していたこと?」
「いやね。まるで、私が誘惑したみたい。唯ね、何かの働きがあって、斯うなったのよ」
「おかしな哲学だ。ロジックがないよ」
「もののはずみこそ、およそ非論理的よ」
 二人は笑った。そして強く抱擁しあった。南原杉子は、強く押しつけられている仁科六郎の唇の感触を、首筋に感じながら、蓬莱和子の存在が、仁科六郎と自分を接近させたことをあらためて考えなおした。蓬莱和子あっての仁科六郎なのだ。
「カレワラのマダムとはあるのでしょう」
「何故」
「だってお互に好きなのでしょう」
 彼女は洋服のスナップをとめながら、仁科六郎にきいてみた。返事はなかった。きいていない風をよそおっているのだと、南原杉子は直
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