ゃちょっと有名ですよ」
「谷山さんも落ちたみたいね」
南原杉子は何気なく笑った。
「だけどいい声だ」
「だれ、ああママさん? 声のいいのは天稟ね。モーツァルトかジプシーソングか」
男は黙っている。
「門外漢だから云えるのね」
男は更に黙っている。
「御趣味拝聴って時間つくればいかが? スポンサーはアルバイト周旋屋」
「女史は何が出来るんですか」
「わたくし? パントマイム」
男は笑った。南原杉子は男を笑わせたことをひどく面白がった。何故なら、この男と二三度会っていながら一度も男の笑いをみたことがなかったからだ。
仁科六郎。彼は、放送会社につとめている。南原杉子は、仕事のことで、彼と事務的な会話をしただけである。
「ここの喫茶店、よく来られるのですか」
「たびたび。でもママさんとは話をしたことがないのよ」
「御紹介しましょうか」
「(興味ある? ありそうね)どうぞ」
丁度、マダムが出て来た。上々の機嫌である。そこで、あたり前の紹介が行われた。
南原杉子。仁科六郎。蓬莱和子。偶然、予期しなかったところに大きなつながりが生れてしまうことはよくあるものだ。その場合、過去になってから、発生の時のことなど別に問題ではない。何ごとでも、ごくありふれたつまらないところから出発するものだ。
その日の三人はそれで終った。南原杉子は、珈琲代をハンドバッグにしまいこんでカレワラを出た。彼女の意識の上には、すでに、仁科六郎と蓬莱和子の存在はなかった。いつも巻上髪をしているのに、今日は長くたらしていた。巻上髪の自分を初対面の蓬莱和子にみせるべきであった。と、ふと南原杉子は思っただけである。彼女は、胸をはって道をあるき、ダンス・レッスン場へおもむいた。彼女は、週に三回、ダンス教師をしている。レッスン場では、赤羽先生になっていて、ダンスの教師だと、そこへ来る連中は思いこんでいる。別に、レッスン場でピアノを教えている。十人位の弟子もある。彼等はピアノの先生だと思いこんでいる。全く、そうに違いないのだ。
南原杉子が、蓬莱和子のことを思い出したのは初対面の日から二三日後であった。いそがしくてカレワラに寄る時間もなかったのだ。真昼のサイレンと共に、エレベーターにとびこんで、放送会社へやって来た彼女は、受付のところで仁科六郎にばったり出会った。
「先日はどうも」
南原杉子は簡単に挨拶して営業関係の人に会いにゆく。その時、蓬莱和子の機嫌のいい、そして流暢な喋り声を思い出したのだ。と、急に、南原杉子は彼女に会いたくなった。ものずきからである。会社の用事をすませ、狭い廊下を小走りに受付へ来ると、仁科六郎ほまだいた。
「そばでも食べに行きませんか」
南原杉子は、そばと仁科と、そして蓬莱和子をならべたてて考えた。
「ちょっと用事があるのよ。今度ね」
エレベーターの扉がしまった。仁科六郎は冷い顔をしていた。彼女は、蓬莱和子と仁科六郎の関係を考えた。
カレワラにはいると、奥でピアノの音がしていて、マダムがリードを練習していた。お客にきかせるならジャズでもうたえばいいのに、南原杉子はそう思った後で苦笑した。一人も御客はいなかったのだ。カウンターの上の水仙は枯れかかっている。女の子が珈琲をいれながら、ママさんを呼びましょうかと云った。南原杉子はにっこりうなずいた。
「まあ、いらっしゃい。おまちしてましたのよ」
「先日は失礼、いそがしくって……」
「そうですってね。六ちゃんが云ってました。一人で何でもやってらっしゃるんですってね」
「(六ちゃん。よほど親しい人とみえる)ぼんやりだから、仕事駄目なのよ。……いいお店。おたのしみね」
「あらいやだ。ちっとももうかりませんのよ。あなた東京の方ね。私、谷山さんの弟子ですのよ。あ、先達は、見えてたでしょう。ああして、月に一回レッスンに来て頂いてますの。関西の御弟子さんはみんなここへいらっしゃるのですよ。御店だか稽古場だかわかりませんわ」
南原杉子は、長々喋ってくれる相手が好きだ。その間に他のことを考えていてもいいし、十分に相手を観察することも出来るのだから。
――一体、この人どんな生活しているのだろう。あれまあ、又谷山をほめている。東京では弟子がないもんだから、ひょこひょこ関西落ちしてるのに、おや、首のあたりに、かげりがある。随分の年かな――
「あなた、音楽なさいませんの」
「好きだけど、無芸なのよ」
「あなた、失礼だけど、お幾つ」
「年などはずかしくって申せませんわ(実際のところ、私はいくつになるのかしら)」
「あら、ごめんなさい。お若くみえますわ、で、おひとり」
「ええ」
「御家族は」
「東京」
「まあ、じゃたったおひとりなんですの」
「さあ」
南原杉子は遂に笑いだしてしまった。蓬莱和子の質問がちっとも面白くない
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