感じたので、云わずに終えた。つまり、その世界が、肉体をはなれて存在するのか、という疑問である。今、お互に、肉体的な交渉を断った場合、その世界はぐらつかないものか? それは疑問である。
下宿の二階で、南原杉子は夜を徹した。
――阿難の愛は、南原杉子の肉体を介さないでも存在します。でも、そんなこと、申出るのは嫌です。あまりにも阿難はみじめよ――
――仁科六郎の返答をききたいのだから――
――よして下さい。その返答がどちらであっても阿難はあわれです――
阿難は懇願する。
――蓬莱建介との関係を断って下さい。彼との関係で得たことは、大きいでした。つまり、阿難と、仁科六郎の世界は絶対のものだったのです。確証を得たのです。それがわかったのだから、もう蓬莱建介の必要はないわけでしょう――
――阿難、だけど、蓬莱建介に興味をもったのは、蓬莱和子の存在があったからなのよ。彼女の真実、彼女の妖気。彼女の自信の根源、すべてまだわかっちゃいないのよ。勿論、そんなことよりも、[#「よりも、」は底本では「より、も」]阿難と仁科六郎との愛情の確証を得たことの方が大きな発見だったことは間違いないけれど――
――阿難がかわいそうです。阿難が抹殺されてなければならない時間があるということは、しかも、仕事の時でない。享楽の時なのよ――
南原杉子は、阿難の申出を拒絶することが出来なくなった。南原杉子は、がく然とした。阿難が、彼女のすべてになってしまったのである。そして、阿難のすべては仁科六郎なのだ。蓬莱夫妻は存在しないのだ。
その夜、同じ夜、蓬莱建介夫妻は語り合っていた。
「お杉とあなたは何でもないのね。さあ、真珠を買って頂かなくちゃ。だけどもう一週間あるわ、一カ月の期限にね、そうだ、お杉が一度一しょにのもうと云ってたのよ。三人で。来週の土曜日、大宴会しましょう。カレワラをかしきってね、七時頃から、そうそ、六ちゃん夫婦も呼びましょうよ」
蓬莱和子ははしゃいでいた。彼女は、やはり蓬莱建介の妻であったのだ。蓬莱建介は、妻を欺いている形になってしまった。
――今更、浮気しましたとは云えない。真珠を買ってやらなければ。だが安いことだ。彼女はもう僕だけのものになりそうだ。案外いい奥さん。さて、しかし、土曜日は、おそろしいことになりはしないかな――
「ねえ、あなた、背広買ったげますわね、浮気出来なくて御気の毒でしたもの」
実際、蓬莱和子は、その夜部屋の中を片附け、御馳走をつくって夫の帰りを待ったのである。安心して、信頼して、そして彼女は、夫を愛していることをはっきり気付き、そのことを喜んだのである。
「ねえ、私、カレワラよすことにしたわ。そしてちょっと骨休みしてから、うちで、御弟子さんをふやして御稽古するわ。丁度、今うり時らしいから」
蓬莱建介は苦笑した。彼は、妻和子を今迄にないかわいいものと思った。だが、彼は別段浮気をよそうとも思わなかった。
「おい、来いよ」
彼は、二階へあがる時、蓬莱和子に声をかけた。
――ゆるしてね、あなた。私、今迄さんざ浮気をしたけれど、誰も愛したのでもないの、若くて美しい自分を知る喜びだけだったの。――
蓬莱和子は、夫建介の背広をプレスしながら、心でつぶやいた。
十一
蓬莱建介は、来る土曜日の夜までに、南原杉子に、ぜひ会っておく必要があると思った。そして電話をした。南原杉子は不在であった。又、電話をした。又不在であった。電話をくれるように伝えて下さい。だが、電話はかからなかった。又、電話をした。彼はもう、二人の関係に終止符が打たれたことを感じた。
三四日すぎた。蓬莱和子は、招待のことをわざわざ南原杉子の会社まで知せに行った。南原杉子は、愛想のいい蓬莱和子に対して、仕方なくほほえんだ。
「夫はね、あなたにふられてしょげこんでるのよ、私、あんまりかわいそうだもんで、これからちょっとサーヴィスしてあげるつもりなのよ。御店をうることにしたの。私、本格的に、声楽の勉強をしたいしね。でも、お店やめてもあなたと御つき合いしたいのよ。私の気持、うけいれて下さるわね。あなたに対して私、真実よ。それでね、土曜日に、あなたをおまねきするつもりなの」
南原杉子は、例の調子の真実らしき表情や言葉に、反撥も疑問もいだかなかった。その上、彼女は、蓬莱和子から憎悪の言葉を浴びたいと思っていたのに、あてがはずれたことにも決して失望しなかった。
――蓬莱和子は、どっちみち心理に変化をきたしたのだわ。私の出現の結果、南原杉子と蓬莱建介の関係の結果にちがいないのだわ。もう、この一組の夫婦に、完全に関心をもたなくなったわ。いや、それよりも、阿難が全面的に、南原杉子を掩ってしまったからだわ――
蓬莱和子は、仁科六郎も招待するものだと
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