て、自由ではない。僕は妻の体を抱く時にふと阿難を思い浮べてしまう。それは無形の束縛で苦痛なのだ。阿難と僕。僕達は未来のことをさえ語らない。破局、そんなことは考えられもしないのだ――
「六ちゃん。ねえ嫌よ。この頃、いつもむっつりしているじゃあないの。あなた本当にお杉に惚れてしまったのね。私はもうあなたの路傍の石になってしまったのね。私、何もあなたと十年前に戻ろうと云ってやしないわ。でも私には何でも打ち明けてくれる筈でしょう。ああ、いやききたくないわ。わかってます。わかってるのよ」
蓬莱和子は思いきり強く仁科六郎の頬を打った。仁科六郎は打たれたことを何とも感じていなかった。彼は阿難のことしか考えていなかったのだ。
それは、三人の会見後、又二週間もたった日の午後十時。飲酒の後の露地であった。仁科六郎と蓬莱和子のその日はまだつづく。二人とも、しきりに飲むことを要求し、気づまりな表情で又のみはじめ、のみ終えた時、蓬莱和子の乗る神戸行の電車はもうなかった。
「家へ泊りに来なさい」
蓬莱和子は度々外泊している。しかも、昨日も一昨日もだ。彼女はすぐに仁科六郎のあとに従った。蓬莱和子はまだ仁科六郎の妻を知らない。そして、電車に乗りおくれたことがよかったと思った。彼女は自信のある女性である。即ち、美貌に於いて。即ち才智に於いて。
仁科六郎は歩行をゆるめた。
「どのおうち」
「いや、まだまだだ」
「じゃあ、いそぎましょう」
蓬莱和子は機嫌がよかった。
「まだ遠いの」
「その角をまがればじきだ」
仁科六郎の歩みはますますのろい。
「どうしたの、のみすぎたのじゃない」
蓬莱和子は、先刻の気づまりな空気をさらりと忘れて、これから会う人の自分への信頼をたのしみにしている。それを感じた仁科六郎は苦々しく思った。彼は、ふと妻に同情したのである。
薄暗い電燈の下で彼の妻、たか子は靴下のつくろいをしていた。突然の侵入者にいささかうろたえてお茶の用意をはじめた。
「御食事はまだでございましょう」
「あの、私結構ですのよ。ほしくないのですから、本当にこんな夜分御邪魔して」
「僕、食うよ」
仁科六郎は、いつもたか子が食事をせずに、彼の帰りをまっていることを知っていた。夫婦が食事をしている間、蓬莱和子は傍で御喋りをはじめた。
「本当にいい御夫婦ね、うらやましいわ。いい奥様で、あなた御幸せね」
食事が終った。仁科六郎は苦々しい思いをかくして、たか子にやさしく言葉をかける。たか子はそれを喜んだ。
――夫が私を愛してくれること他の女の人にみせるのは気持がいいわ――
そして、蓬莱和子の巧みな話術に、最初抱いた恥辱のようなものもすっかり消されていた。たか子は絶対に夫を信じている。夫に愛情を持っている。そのことは蓬莱和子のまっ先に理解出来たことである。
「ごめんなさい。ねえ、わたし、ちょっと、あなたをうたがったの、あなたをよ、わるかったわ。ゆるして頂戴。あの方いい方ね」
蓬莱和子が二階の部屋に案内された後、寐床をとりながら貞淑な妻は夫にささやいた。三時頃である。それまで三人は愉快に世間話をしていた。蓬莱和子は、彼の妻の信頼を得たことを確認していた。そしてすぐに眠りについた。おそるべき無邪気さである。彼女は、南原杉子にしか嫉妬しない。仁科六郎の愛撫の対象がたか子なら、彼女は別段何とも思いはしない。かえって、階下の様子を空想してたのしく思ったのだ。よくある仲人マニアの色情的快楽に似ている。おかしな優越をふくんで。
仁科六郎は一睡も出来なかった。二階の女のことよりも、安心しきって眠っている妻のことよりも、彼の意識に阿難が笑っているからなのだ。蓬莱和子は南原杉子の名前を一度もたか子の前で口にしなかった。仁科六郎も勿論云わないでいた。彼は、話題に出なかったことにほっとしたのだが、かえって、わざとらしい蓬莱和子の態度を苦々しく思ったのだ。仁科六郎は、たか子の静かな眠りをさまたげたい気がした。そして、彼女の両眼に、唇を押しつけた。たか子は眠ったままであった。彼の中の阿難は、まだ微笑しつづけている。仁科六郎は、明日こそ、阿難の正体をつかんでしまうのだと、決意した。
夜明け近い。南原杉子は、眠られぬ一夜をすごした。
――阿難、お前よく考えなきゃ。仁科六郎は今の状態をつづけていることに満足なのかも知れないけど、あの人には妻があるのよ――
――何を云つても駄目だわ、阿難は、既にレールの上を走っているのよ。ブレーキは持っていない。――
――じゃあ、南原杉子の行先は何処? ――
――阿難が、南原杉子をひきずって走ってゆくのよ。でも、阿難の行先もわかってはいない。目を閉じて走っているんだわ――
――あの人と、結婚出来ないのよ。いつかは……――
――云わないで。――
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