夜一晩寐ていなかった。
「いや、未完遂、昨夜は、友達に会ったのさ、軍隊の時のね」
「それは、御気の毒様」
蓬莱建介は、妻をみた瞬間、浮気をした話を云ってはならないものと心に決めていた。彼はひどくむっつりと、おそい夕飯をたべた。蓬莱和子は非常に朗かであった。夫の言葉を信じたからなのだ。
「賭の期限をきめないこと、一カ月にしましょう」
蓬莱建介は黙っていた。その夜、二階の彼の部屋に、蓬莱和子は姿をみせた。ひどく、やさしく。
九
「私、子供が出来たらしいですわ」
仁科たか子は、夫六郎の枕許にすわっていた。欠勤四日目である。流行性感冒にかかって仁科六郎はひどく高熱を出して苦しんだ。たか子は献身的に看護した。熱も降り坂。だが、まだ起き上ることは出来ない。うつらうつらゆめをみていた彼は、彼女の声にはっとした。彼は、阿難のことしか意識の中になかったのだ。
「それはよかったね。身体を大事にして」
仁科六郎は、しばらくしてぽっつり云った。彼は子供をほしがっていた。けれど、最近は子供のことに関心を持たなくなっていたのだ。
「あなたこそ早く元気になってほしいわ」
流行性感冒にかかったということは、平常から体が弱っていたのだと、たか子は解釈していた。彼女は夫を疑わなかった。夫婦関係の間隔がいつのまにかひろくなっていたのだ。
「今、何時だろう」
「二時すぎよ」
仁科六郎は又目を閉じた。
「あなた、うわごと云ってらしたわよ」
「なんて」
「よくわからなかったけど御仕事のことでしょう。私、会社へ今朝電話しておきました」
「そうか」
仁科六郎の瞳の裏に阿難が浮んでいる。夢で、ドビュッシーをきいていたのだ――阿難がピアノを弾いている。その背後に自分がたっている。突然、彼女が弾く手をやすめた。ところがピアノは鳴りつづけている。ふしぎでしょう、と彼女が笑う。そして、ピアノの傍からどこかへ逃げ出そうとする。自分が追いかけようとする。突然、彼女が両手で顔を掩い泣きはじめた。近寄ると、私を苦しめないでと云う。――
仁科六郎は、阿難が泣いている姿を、現実にみたことがないのに、夢でみたことに何か不安を感じた。
「ねえ、どっちだと思う。男の子かしら女の子かしら」
「どっちがいい」
「女の子がほしいの」
「何故」
「私が、女にうまれてよかったと思うから」
仁科六郎は、はっきり目をひらい
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