人は奥様なんでしょう」
「何だかわけがわからなくなったよ。ねえ、それより、君と浮気していいかい?」
「と、奥様におききあそばせ」
二人は哄笑した。南原杉子は、自分が口から出まかせに、でたらめなことを喋りたてたと、おもしろく思った。
終電車で、南原杉子は下宿に戻った。彼女は蓬莱建介と自分の会話を思い出した。彼は約束を嫌うといって、彼女に再会の約束を強いたのであった。彼女は三日後、しかもカレワラで会うことを指定した。
――南原杉子。一体どうしようというの――
阿難のおごそかな声である。
――阿難、黙っていて。おねがいだから、黙っていて頂戴――
一方、蓬莱建介が自宅に帰ると、蓬莱和子は美顔術をやっている最中であった。鏡の前にすわって、べたべたするものを顔中に塗りつけ、神妙に皮膚をこわばらせていた。
「おい。お前の愛人とランデヴーしたぞ」
「あらそう、お杉とね、よかったでしょう」
蓬莱和子は、ゆっくり静かに口をつぼめたなりこたえた。
「彼女と浮気したとしたら、おこるかね」
「どうぞ。だけどあなたが惚れても彼女はあなたなんかに惚れやしないわよ」
頬の下あたりに、幾条ものひびが出来た。彼女は美顔術をほどこしている最中であることをわすれはじめた。
「よしよし、じゃあ賭けよう、何がいい」
「そうね、あなたに背広つくってあげるわ」
彼女は、美顔術を中途でよさなければと、鏡をみかえって、あわてて手拭いで顔をふいた。
「じゃあ、お前は何がほしいんだ」
「真珠のネックレース。チョーカがいいの」
「浮気させてもらって、背広をもらう、しめしめだ」
「浮気出来なくて、真珠をかわされるあなたは、ちっとかわいそうだこと。あら、だけど証拠はどうするの」
「浮気したらしたと云うさ」
「あなたの言葉を信用しましょうか、いえ、私、お杉をみればすぐわかるわ、よろしい」
蓬莱和子は万年床である。その敷布はうすぐろく、かけぶとんのいたるところにほころびがある。そういった彼女を、ひどく建介はきらっていたが、彼はもう何も云はない。家の中は不潔で、台所の鍋の中は、一週間も同じものがはいったままになっている。夫婦生活の倦怠は家の中に充満している。建介は自分の部屋だけ自分で片づけていた。ベッドを一台もちこんでいる。時々、和子は建介の部屋へ来る。彼女は夫を少しあわれんでみることがあるようだ。しかし、夫
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