原杉子は、テーブルの下でハンカチを出し、へんな感触のあとを処理しながらたずねた。
「あら、ない方が楽ですわ。でも何故ないって御気付きになったの」
「わかりますわ、お若いですもの」
話は終った。南原杉子はカレワラを出た。非常にこころよい。ビールのせいか。蓬莱和子の饒舌のせいか。いや、南原杉子は、ビールの味も長い饒舌も忘れていた。こころよいのは何故だろう。彼女自身仲々気がつかない。電車通りをすぎ、紡績会社の方へ曲った時、彼女は、そのこころよさが何であるか発見した。それは、仁科六郎の存在である。
三
「ねえ、女史はよしてね」
「どうして突然そんなこと云いだした?」
「あなたは、仲々仮面を取りはずさないみたいよ。だから、私まで女史を意識しなきゃいけないみたいで嫌《いや》。(早く生の彼を発見したいものだわ)」
「じゃあ何て呼ぼう」
「阿難」
「アナン、それ愛称?」
「ううん。誰も阿難とは呼ばないわ。私、ひとりで阿難って自分に名前つけてるの(実は今ふと思いついた名前なのだ。阿難陀は男だったかしら)」
「どうして」
「何となく」
仁科六郎は両腕に力をいれて、小麦色の肩のあたりを無意識にかんだ。抱かれているのは南原杉子である。
「ねえ、どうして此処へはいったのでしょう」
「わからない」
「あなたらしくないこたえね」
「もののはずみなんだ」
「ますますあなたらしくないわ。(先手をうたれたようだ)もののはずみって度々生じるんでしょう。しかも特定の対象に限らないのだ」
「じゃあ君はどうなんだ」
「阿難と云ってよ。私はもののはずみじゃない(本当はもののはずみかしら)」
「計画していたこと?」
「いやね。まるで、私が誘惑したみたい。唯ね、何かの働きがあって、斯うなったのよ」
「おかしな哲学だ。ロジックがないよ」
「もののはずみこそ、およそ非論理的よ」
二人は笑った。そして強く抱擁しあった。南原杉子は、強く押しつけられている仁科六郎の唇の感触を、首筋に感じながら、蓬莱和子の存在が、仁科六郎と自分を接近させたことをあらためて考えなおした。蓬莱和子あっての仁科六郎なのだ。
「カレワラのマダムとはあるのでしょう」
「何故」
「だってお互に好きなのでしょう」
彼女は洋服のスナップをとめながら、仁科六郎にきいてみた。返事はなかった。きいていない風をよそおっているのだと、南原杉子は直
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