るのはごくわけのないことであった。それはまっすぐな道であった。ただいやなことは、一日つかれたあとで、かなりな道のりを歩いて行かなければならないことであった。でも父親がこう言えば、わたしは服従《ふくじゅう》しなければならなかった。それでわたしは宿屋《やどや》で会うことをやくそくした。
 そのあくる日、カピを馬車に結《ゆ》わえつけて番犬において、わたしはマチアと競馬場《けいばじょう》へ急いで行った。
 わたしたちは行くとさっそく、音楽を始めて、夜まで続《つづ》けた。わたしの指は何千という針《はり》でさされたように、ちくちく痛《いた》んだし、かわいそうなマチアはあんまりいつまでもコルネをふいて、ほとんど息が出なくなった。
 もう夜中を過《す》ぎていた。いよいよおしまいの一番をやるときに、かれらが演芸《えんげい》に使っていた大きな鉄の棒《ぼう》がマチアの足に落ちた。わたしはかれの骨《ほね》がくじけたかと思ったが、運よくそれはひどくぶっただけであった。骨はすこしもくじけなかったが、やはり歩くことはできなかった。
 そこでかれはその晩《ばん》ボブといっしょにとまることになった。わたしはあくる日ドリスコルの一家の行く先を知らなければならないので、一人「大がしの宿屋《やどや》」へ行くことにした。その宿屋へわたしが着いたときは、まっくらであった。馬車があるかと思って見回したが、どこにもそれらしいものは見えなかった。二つ三つあわれな荷車のほかに、目にはいったものは大きなおりだけで、そのそばへ寄《よ》ると野獣《やじゅう》のほえ声がした。ドリスコル一家の財産《ざいさん》であるあのごてごてと美しくぬりたてた馬車はなかった。わたしは宿屋《やどや》のドアをたたいた。亭主《ていしゅ》はドアを開けて、ランプの明かりをまともにわたしの顔にさし向けた。かれはわたしを見覚《みおぼ》えていたが、中へ入れてはくれないで、両親はもうルイスへ向けて立ったから、急いであとを追っかけろと言って、もうすこしでもぐずぐずしてはいられないとせきたてた。それでぴしゃりとドアを立てきってしまった。
 わたしはイギリスに来てから、かなりうまくイギリス語を使うことを覚《おぼ》えた。わたしはかれの言ったことが、はっきりわかったが、ぜんたいそのルイスがどこらに当たるのか、まるっきり知らなかった。よしその方角を教わったにしても、わたしは行くことはできなかった。マチアを置《お》いて行くことはできなかった。
 わたしは痛《いた》い足をいやいや引きずって競馬場《けいばじょう》に帰りかけた。やっと苦しい一時間ののち、わたしはボブの車の中でマチアとならんでねむっていた。
 あくる朝ボブはルイスへ行く道を教えてくれたので、わたしは出発する用意をしていた。わたしはかれが朝飯《あさはん》のお湯をわかすところを見ながら、ふと目を火からはなして外をながめると、カピが一人の巡査《じゅんさ》に引《ひ》っ張《ぱ》られて、こちらへやって来るのであった。どうしたということであろう。
 カピがわたしを見つけたしゅんかん、かれはひもをぐいと引っ張った。そして巡査の手からのがれてわたしのほうへとんで来て、うでの中にだきついた。
「これはおまえの犬か」と巡査《じゅんさ》がたずねた。
「そうです」
「ではいっしょに来い。おまえを拘引《こういん》する」
 かれはこう言って、わたしのえりをつかんだ。
「この子を拘引するって、どういうわけです」とボブが火のそばからとんで来てさけんだ。
「これはおまえの兄弟か」
「いいえ、友だちです」
「そうか。ゆうべ、おとなと子どもが二人、セント・ジョージ寺へどろぼうにはいった。かれらははしごをかけて、窓《まど》からはいった。この犬がそこにいて番をしていた。ところが犯行《はんこう》中おどろかされて、あわてて窓からにげ出したが、犬を寺へ置《お》いて行った。この犬を手がかりにして、どろぼうは確《たし》かに見つかると思っていた。ここに一人いた。今度はそのおやじだが、そいつはどこにいる」
 わたしはひと言も言うことができなかった。この話を聞いていたマチアは、車の中から出て来て、びっこをひきひきわたしのそばに寄《よ》った。ボブは巡査《じゅんさ》に、この子が罪人《ざいにん》であるはずがない、なぜならゆうべ一時までいっしょにいたし、それから「大がしの宿屋《やどや》」へ行って、そこの主人と話をして、すぐここへ帰って来たのだからと言った。
「寺へはいったのは一時十五分|過《す》ぎだった」と巡査《じゅんさ》が言った。「するとこの子がここを出たのは一時だから、それから仲間《なかま》に会って、寺へ行ったにちがいない」
「ここから町までは十五分|以上《いじょう》かかります」とボブが言った。
「なに、かければ行けるさ」と巡査が答えた。「それに、こいつが一時にここを出たという確《たし》かな証拠《しょうこ》があるか」
「わたしが証人《しょうにん》です。わたしはちかいます」とボブがさけんだ。
 巡査《じゅんさ》は肩《かた》をそびやかした。
「まあ子どもが判事《はんじ》の前へ出て、自分で陳述《ちんじゅつ》するがいい」とかれは言った。
 わたしが引かれて行くときに、マチアはわたしの首にうでをかけた。それはあたかも、わたしをだこうとしたもののようであったが、マチアにはほかの考えがあった。
「しっかりしたまえ」とかれはささやいた。「ぼくたちはきみを見捨《みす》てはしないよ」
「カピを見てやってくれたまえ」とわたしはフランス語で言った。けれど巡査《じゅんさ》はことばを知っていた。
「おお、どうして」とかれは言った。「この犬はわしが預《あず》かる。この犬のおかげできさまを見つけたのだ。もう一人もこれで見つかるかもしれない」
 巡査《じゅんさ》に手錠《てじょう》をかわれて、わたしはおおぜいの目の前を通って行かなければならなかった。けれどこの人たちはわたしがまえにつかまったときの、フランスの百姓《ひゃくしょう》のように、はずかしめたりののしったりはしなかった。この人たちはたいてい巡査に敵意《てきい》を持っていた。かれらはジプシー族や浮浪者《ふろうしゃ》であった。どれも宿《やど》なしの浮浪人であった。
 今度|拘引《こういん》された留置場《りゅうちじょう》にはねぎが転《ころ》がしてはなかった。これこそほんとうの牢屋《ろうや》で、窓《まど》には鉄の棒《ぼう》がはめてあって、それを見ただけで、もうどうでもにげ出したいという気を起こさせた。部屋《へや》にはたった一つのこしかけと、ハンモックがあるだけであった。わたしはこしかけにぐったりたおれて、頭を両手にうずめたまま、長いあいだじっとしていた。マチアとボブは、よし、ほかの仲間《なかま》の加勢《かせい》をたのんでも、とてもここからわたしを救《すく》い出すことはできそうもなかった。わたしは立ち上がって窓《まど》の所へ行った。鉄の格子《こうし》はがんじょうで、目が細かかった。かべは三|尺《じゃく》(約一メートル)も厚《あつ》みがあった。下のゆかは大きな石がしきつめてあった。ドアは厚い鉄板をかぶせてあった。どうしてにげるどころではなかった。
 わたしはカピがお寺にいたという事実に対して、自分の無罪《むざい》を証拠《しょうこ》だてることができるであろうか。マチアとボブとは、わたしが現場《げんじょう》にいなかったという証人《しょうにん》になって、わたしを助けることができようか。かれらがこれを証明《しょうめい》することさえできたら、あのあわれな犬が、わたしのためにつごう悪く提供《ていきょう》した無言《むごん》の証明があるにかかわらず、放免《ほうめん》になるかもしれない。看守《かんしゅ》が食べ物を持って来たとき、わたしは判事《はんじ》の前へ出るのは、手間がとれようかと聞いた。わたしはそのときまで、イギリスでは、拘引《こういん》されたあくる日、裁判所《さいばんしょ》へ呼《よ》ばれるということを知らなかった。親切な人間らしい看守は、きっとそれはあしただろうと言った。
 わたしは囚人《しゅうじん》が差《さ》し入《い》れの食べ物の中に、よく友だちからの内証《ないしょう》のことづけを見つけるという話を聞いていた。わたしは食べ物に手がつかなかったが、ふと思いついて、パンを割《わ》り始めた。わたしは中になにも見つけなかった。パンといっしょについていたじゃがいもをも粉《こな》ごなにくずしてみたが、ごくちっぽけな紙きれをも見つけなかった。
 わたしはその晩《ばん》ねむられなかった。つぎの朝|看守《かんしゅ》は水のはいったかめと金だらいを持って、わたしの部屋《へや》にはいって来た。かれは顔を洗《あら》いたければ洗えと言って、これから判事《はんじ》の前へ出るのだから、身なりをきれいにすることは損《そん》にはならないと言った。しばらくしてまた看守《かんしゅ》はやって来て、あとについて来いと言った。わたしたちはいくつかろうかを通って、小さなドアの前へ来ると、かれはそのドアを開けた。
「おはいり」とかれは言った。
 わたしのはいった部屋《へや》はたいへんせま苦しかった。おおぜいのわやわやいうつぶやきをも聞いた。わたしのこめかみはぴくぴく波を打って、ほとんど立っていることができないくらいであったが、そこらの様子を見ることはできた。
 部屋は大きな窓《まど》と、高い天井《てんじょう》があって、りっぱな構《かま》えであった。判事《はんじ》は高い台の上にこしをかけていた。その前のすぐ下には、ほかの三人の裁判官《さいばんかん》がこしをかけていた。そのそばにわたしは法服《ほうふく》を着て、かつらをかぶった紳士《しんし》といっしょにならんだ。これがわたしの弁護士《べんごし》であることを知って、わたしはおどろいた。どうして弁護士ができたろう。どこからこの人はやって来たのだろう。
 証人《しょうにん》の席《せき》には、ボブと二人の仲間《なかま》、「大がしの宿屋《やどや》」の亭主《ていしゅ》、それからわたしの知らない二、三人の人がいた。それから向《む》こう側《がわ》には五、六人の人の中に、わたしを拘引《こういん》した巡査《じゅんさ》を見つけた。検事《けんじ》は二言三言で、罪状《ざいじょう》を陳述《ちんじゅつ》した。セント・ジョージ寺で窃盗事件《せっとうじけん》があった。どろぼうはおとなと子どもで、はしごを登ってはいるために、窓《まど》をこわした。かれらは外へ張《は》り番《ばん》の犬を置《お》いた。一時十五分|過《す》ぎにおそい通行人が寺の明かりを見つけて、すぐに寺男を起こした、五、六人、人が寺へかけつけると、犬ははげしくほえて、どろぼうは犬をあとに残《のこ》したまま、窓《まど》からにげた。犬のちえはおどろくべきものであった。つぎの朝その犬を巡査《じゅんさ》が競馬場《けいばじょう》へ連《つ》れて行った。そこでかれはすぐと主人を認識《にんしき》した。それはすなわち現《げん》に囚人席《しゅうじんせき》にいる子どもにほかならなかった。なお一人の共犯者《きょうかんしゃ》に対しては、追跡《ついせき》中であるからほどなく捕縛《ほばく》の手続《てつづ》きをするはずである。
 わたしのために言われたことはいたってわずかであった。わたしの友人たちはわたしが現場《げんじょう》がいなかったという証言《しょうげん》をしたけれども、検事《けんじ》は、いや、寺へ行って共犯者《きょうはんしゃ》に出会って、それから「大がしの宿屋《やどや》」へかけて行く時間はじゅうぶんあったと言った。わたしはそれからどうして犬が一時十五分ごろ寺にいたか、その理由を述《の》べろと言われた。わたしは犬はまる一日自分のそばにいなかったのだから、それをなんとも言うことはできないし、わたしはなにも知らないと申し立てた。
 わたしの弁護士《べんごし》は、犬がその日のうちに寺に迷《まよ》いこんで、寺男が戸を閉《し》めたとき、中へ閉めこまれたものであるということを証拠《しょうこ》立《だ》てようと努《つと》めた。かれはわたしのため
前へ 次へ
全33ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング