きなかった、これをひじょうに残念《ざんねん》がっていた。たびたびわたしはかの女の目になみだが流れているのを見た。それがかの女の心の苦しみを語っていた。でも優《やさ》しい快活《かいかつ》な性質《せいしつ》からその苦しみはすぐに消えた。かの女は目をふいて、しいて微笑《びしょう》をふくみながら、こう言うのであった。
「いまにね」
アッケンのお父さんには、養子《ようし》のようにされ、子どもたちには兄弟のようにあつかわれながら、わたしは、またしてもわたしの生活を引っくり返すような事件《じけん》はもう起こらずに、いつまでもグラシエールにいられそうには思えなかった。それはわたしというものが、長く幸福にくらしてゆくことができないたちで、やっと落ち着いたと思うときには、それはきっとまた幸福からほうり出されるときであって、自分の望《のぞ》んでもいない出来事のためにまたもや変《か》わった生活にとびこまなければならなくなるのであった。
一家の離散《りさん》
このごろわたしは一人でいるとき、よく考えては独《ひと》り言《ごと》を言った。
「おまえはこのごろあんまりよすぎるよ。これはどうも長続《ながつづ》きしそうもない」
でもなぜ不幸《ふこう》が来なければならないか、それをまえから予想《よそう》することはできなかった。だがどのみち、それのやって来ることは疑《うたが》うことのできない事実のように思われてきた。
そう思うと、わたしはたいへん心細かった。しかし、一方から見ると、その不幸《ふこう》をどうにかしてさけるようにいっしょうけんめいになるので、しぜんにいいこともあった。なぜというに、わたしがこんなにたびたび不幸な目に会うのは、みんな自分の過失《かしつ》から来ると思って、反省《はんせい》するようになったからである。
でもほんとうは、わたしの過失ではなかった。それをそう思ったのは、自分の思い過《す》ごしであったが、不幸《ふこう》が来るという考えはちっともまちがいではなかった。
わたしはまえに、お父さんがにおいあらせいとう[#「においあらせいとう」に傍点]の栽培《さいばい》をやっていたと言ったが、この花を作るのはわりあいに容易《ようい》で、パリ近在《きんざい》の植木屋はこれで商売をする者が多かった。その草は短くって大きく、上から下までぎっしり花がついていて、四、五月ごろになると、これがさかんにパリの市場に持ち出されるのであった。ただこの花でむずかしいのは、芽生《めば》えのうちから葉の形で八重《やえ》と一重《ひとえ》を見分けて、一重を捨《す》てて八重を残《のこ》すことであった。この鑑別《かんべつ》のできる植木屋さんはごくわずかで、その人たちが家の秘法《ひほう》にして他へもらさないことにしてあるので、植木屋|仲間《なかま》でも、特別《とくべつ》にそういう人をたのんで花を見分けてもらわなければならなかった。それでたのまれた人はほうぼうの花畑を巡回《じゅんかい》して歩いて、いろいろと注意をあたえるのであった。これをレセンプラージュと言っていた。お父さんはパリではこの道にかけて熟練《じゅくれん》のほまれの高い一人であった。それでその季節《きせつ》にはほうぼうからたのまれて、うちにいることが少なかった。そしてこの季節が、わたしたちとりわけエチエネットにとって、いちばん悪いときであった。なぜというと、お父さんは一けん一けん回って歩くうちに、ほうぼうでお酒を飲ませられて、夜おそく帰るじぶんには、まっかな顔をして、舌《した》も回らないし、手足もぶるぶるふるえていた。
そんなとき、エチエネットは、どんなにおそくなっても、きっとねずに待っていた。わたしがまだねいらずにいるか、または帰って来る足音で目を覚《さ》ましたときには、部屋《へや》の中から二人の話し声をはっきり聞いた。
「なぜおまえはねないんだ」とお父さんは言った。
「お父さんがご用があるといけないと思って」
「なんだと。そんなことを言って、このおじょうさんの憲兵《けんぺい》が、わたしを監視《かんし》するつもりだろう」
「でもわたしが起きていなかったら、だれとお話しなさるおつもり」
「おまえ、わたしがまっすぐに歩けるか見てやろうと思っているんだな。よし、この行儀《ぎょうぎ》よくならんだしき石を一つ一つふんで、子どもの寝部屋《ねべや》まで行けるかどうか、かけをしようか」
不器用《ぶきよう》な足音が台所じゅうをしばらくがたつかせると、やがてまた静《しず》かになった。
「リーズはごきげんかい」とお父さんは言った。
「ええ。よくねていますわ。どうかお静かに」
「だいじょうぶさ。わたしはまっすぐに歩いているのだ。なにしろおじょうさんたちがやかましいから、お父さんもせいぜいまっすぐに歩かなくてはならぬ。リーズ
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