人のほかは、残《のこ》らず男の子であった。この人はもうかなりのおじいさんで、若《わか》いじぶんには鉱山《こうざん》で大工《だいく》の仕事をしていたが、あるとき過《あやま》って指をくだいてからは、手についた職《しょく》を捨《す》てなければならなかったのであった。
 さて坑《こう》にはいってまもなく、わたしは坑夫《こうふ》というものが、どういう人間で、どんな生活をしているものだかよく知ることになった。


     洪水《こうずい》

 それはこういうことからであった。
 運搬夫《うんぱんふ》になって、四、五日してのち、わたしは車をレールの上でおしていると、おそろしいうなり声を聞いた。その声はほうぼうから起こった。
 わたしの初《はじ》めの感じはただおそろしいというだけであって、ただ助かりたいと思う心よりほかになにもなかったが、いつもものにこわがるといっては笑《わら》われていたのを思い出して、ついきまりが悪くなって立ち止まった。爆発《ばくはつ》だろうか、なんだろうか、ちっともわからなかった。
 ふと何百というねずみが、一|連隊《れんたい》の兵士《へいし》の走るように、すぐそばをかけ出して来た。すると地面と坑道《こうどう》のかべにずしんと当たるきみょうな音が聞こえて、水の走る音がした。わたしはガスパールおじさんのほうへかけてもどった。
「水が鉱坑《こうこう》にはいって来たのです」とわたしはさけんだ。
「ばかなことを言うな」
「まあ、お聞きなさい。あの音を」
 そう言ったわたしの様子には、ガスパールおじさんにいやでも仕事をやめて耳を立てさせるものがあった。物音はいよいよ高く、いよいよものすごくなってきた。
「いっしょうけんめいかけろ。鉱坑《こうこう》に水が出た」とかれがさけんだ。
「先生、先生」とわたしはさけんだ。
 わたしたちは坑道《こうどう》をかけ下りた。老人《ろうじん》もいっしょについて来た。水がどんどん上がって来た。
「おまえさん先へおいでよ」とはしご段《だん》まで来ると老人は言った。
 わたしたちはゆずり合っている場合ではなかった。ガスパールおじさんは先に立った。そのあとへわたしも続《つづ》いて、それから「先生」が上がった。はしご段《だん》のてっぺんに行き着くまえに大きな水がどっと上がって来てランプを消した。
「しっかり」とガスパールおじさんがさけんだ。わたしたちははしごの横木にかじりついた。でもだれか下にいる人がほうり出されたらしかった、たきの勢《いきお》いがどっどっとなだれのようにおして来た。
 わたしたちは第一|層《そう》にいた。水はもうここまで来ていた。ランプが消えていたので、明かりはなかった。
「いよいよだめかな」と「先生」は静《しず》かに言った。「おいのりを唱《とな》えよう、こぞうさん」
 このしゅんかん、七、八人のランプを持った坑夫《こうふ》がわたしたちの方角へかけて来て、はしご段《だん》に上がろうと骨《ほね》を折《お》っていた。
 水はいまに規則《きそく》正しい波になって、坑《こう》の中を走っていた。気ちがいのような勢《いきお》いでうずをわかせながら、材木《ざいもく》をおし流して、羽《はね》のように軽《かる》くくるくる回した。
「通気竪坑《つうきたてこう》にはいらなければだめだ。にげるならあすこだけだ。ランプを貸《か》してくれ」と「先生」が言った。
 いつもならだれもこの老人《ろうじん》がなにか言っても、からかう種《たね》にはしても、まじめに気を留《と》める者はなかったであろうが、いちばん強い人間もそのときは精神《せいしん》を失《うしな》っていた。それでしじゅうばかにしてした老人の声に、いまはついて行こうとする気持ちになっていた。ランプがかれにわたされた。かれはそれを持って先に立ちながら、いっしょにわたしを引《ひ》っ張《ぱ》って行った。かれはだれよりもよく鉱坑《こうこう》のすみずみを知っていた。水はもうわたしのこしまでついていた。「先生」はわたしたちをいちばん近い竪坑《たてこう》に連《つ》れて行った。二人の坑夫《こうふ》はしかしそれは地獄《じごく》へ落《お》ちるようなものだと言って、はいるのをこばんだ。かれらはろうかをずんずん歩いて行った。わたしたちはそれからもう二度とかれらを見なかった。
 そのとき耳の遠くなるようなひどい物音が聞こえた。大津波《おおつなみ》のうなる音、木のめりめりさける音、圧搾《あっさく》された空気の爆発《ばくはつ》する音、すさまじいうなり声がわたしたちをおびえさせた。
「大洪水《だいこうずい》だ」と一人がさけんだ。
「世界《せかい》の終わりだ」
「おお、神様お助けください」
 人びとが絶望《ぜつぼう》のさけび声を立てるのを聞きながら、「先生」は平気な、しかしみんなを傾聴《けいちょう》させ
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