るものか。さあ行こう」
 しかし意地は張《は》っても、からだの力はまったくつきていた。しばらくしてまたかれは立ち止まった。
「すこし休まなければ」とかれは力なく言った。「わたしはもう歩けない」
 さくで大きな花園を囲《かこ》った家があった。その門のそばの積《つ》みごえの山にかけてあるたくさんのわらを、風が往来《おうらい》のさくの根かたにふきつけていた。
「わたしはここにすわろう」と親方が言った。
「でもすわれば、今度立ち上がることができなくなるとおっしゃったでしょう」
 かれは返事をしなかった。ただわたしに手まねをして、門の前にわらを積《つ》み上げるようにと言った。このわらのしとねの上にかれはすわるというよりばったりたおれた。かれの歯はがたがた鳴って、全身がひどくふるえた。
「もっとわらを持っておいで」とかれは言った。「わらをたくさんにして風を防《ふせ》ごう」
 まったく風がひどかった。寒さばかりではなかった。わたしは集められるだけありったけのわらを集めて親方のわきにすわった。
「しっかりわたしにくっついておいで」とかれは言った。「カピをひざに乗せておやり。からだのぬくみでおまえもいくらか温かくなるだろう」
 親方ほどの経験《けいけん》を積《つ》んだ人がいまの場合こんなまねをすればこごえて死んでしまうことはわかりきっているのに、その危険《きけん》を平気でおかすということは、もう正気ではなかつた証拠《しょうこ》であった。実際《じっさい》久《ひさ》しいあいだの心労《しんろう》と老年《ろうねん》に、この最後《さいご》の困苦《こんく》が加《くわ》わって、かれはもう自分を支《ささ》える力を失《うしな》っていた。自分でもどれほどひどくなっているか、かれは知っていたろうか。わたしがかれのそばにぴったりはい寄《よ》ったときに、かれは身《み》をかがめてわたしにキッスした。これがかれがわたしにあたえた二度目のキッスであった。そしてああ、それが最後《さいご》のキッスであった。
 わたしは親方にすり寄《よ》ったと思うと、もう目がくっついたように思った。わたしは目を開けていようと努《つと》めたができなかった。うでをつねっても、肉にはなんの感じもなかった。わたしがひざを立てたその間にもぐって、カピはもうねむっていた。風はわらのたばを木からかれ葉をはらうようにわたしたちの頭にふきつけた。往来《お
前へ 次へ
全163ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング