火をまい上げそうにした。
宿屋《やどや》の亭主《ていしゅ》は親方の顔を見て、
「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどいふぶきになりますぜ」
「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大ふぶきの来るまえにトルアまで行きたいと思っている」
「六、七里(約二十四〜二十八キロ)もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」
でもかまわずわたしたちは出発した。
親方はジョリクールをしっかりからだにだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬は固《かた》いこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はデイジョンでわたしにひつじの毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったりからだにふきつけられていた。
わたしたちは口を開くのがひどくふゆかいだったので、だまりこんで歩きながら、少しでも暖《あたた》まろうとして急いだ。
もう夜明けの時間をよほど過《す》ぎていたが、空はまだまっ暗であった。東のほうに白っぽい帯《おび》のようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。
野景色《のげしき》を見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、灌木《かんぼく》や小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。
往来《おうらい》にも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、むちの鳴る音も聞こえなかった。
ふと北の空に青白い筋《すじ》が見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちはきみょうながあがあいうささやき声のような音を聞いた。それはがん[#「がん」に傍点]か野の白鳥のさけび声であったろう。この気ちがいじみた鳥の群《む》れは、わたしたちの頭の上を飛《と》んだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。かれらが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな雪片《せっぺん》が静《しず》かに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。
わたしたちが通って行く道は喪中《もちゅう》のようにしずんでさびしかった。あれきって陰気《いんき》な野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さなちょうちょうのように目の前にちらちらした。絶《た》えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。
わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪の降《ふ》るまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。
わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。
しかしまもなくそれがほんとうにわかった。しかもわたしにはけっして忘《わす》れることのできないものであった。
雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲のふところが開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中をちょうちょうのようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしい勢《いきお》いで降《ふ》って来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。
「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。
わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならないまえにわたしが見ておいたかぎりでは、一けんもうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。
わたしたちの前には底知《そこし》れぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちを包《つつ》んでいる両側《りょうがわ》の丘陵《きゅうりょう》もやはり深い森であった。
雪はいよいよはげしく降《ふ》ってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけにひつじの毛皮服を持ち上げて、ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。
犬たちももう先に立ってかけることができなかった。かれらはわたしたちのかかとについて歩いて、早く休むうちを求《もと》めたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。
道はいっこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼ骨《ほね》を折《お》って歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物がこおりついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののないあらしにふきさらされていた。そのうち風はいくらか静《しず》まったが、雪のかたまりはますます大きくなって、みるみる積《つ》もった
わたしは親方がなにか探《さが》し物《もの》をするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、かれはなにも言わなかった。なにをかれは見つけようとするのであろう。
わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家が現《あらわ》れてきはしないかという望《のぞ》みをかけていた。
だが目の届《とど》く限《かぎ》り両側《りょうがわ》は雪にうずまった林であった。前はもう二、三間(四〜五メートル)先が雪でぼんやりくもっていた。
わたしはこれまで暖《あたた》かい台所の窓《まど》ガラスに雪の降《ふ》るところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠いゆめの世界のように思われることであろう。
でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。なるほど、わたしはぼんやりと、空き地の中に堀立小屋《ほったてごや》のようなものを見た。
わたしたちはその小屋に通う道を探《さが》さなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは困難《こんなん》な仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へはいることができた。
その小屋は丸太《まるた》やしばをつかねて造《つく》ったもので、屋根も木のえだのたばを積《つ》み重ねて、雪が間から流れこまないように固《かた》くなわでしめてあった。
犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上をほこりを立てて転《ころ》げ回《まわ》っていた。
わたしたちの満足《まんぞく》もかれらにおとらず大きかった。
「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が降《ふ》ってもかまわないぞ」
「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大いばりで言った。
わたしは戸口――というよりも小屋に出入《しゅつにゅう》する穴《あな》というほうが適当《てきとう》で、そこにはドアも窓《まど》もなかったが――そこまで行って、わたしは上着とぼうしの雪をはらった。せっかくのかわいた部屋《へや》をぬらすまいと思ったからである。
わたしたちの宿《やど》の構造《こうぞう》はしごく簡単《かんたん》であった。備《そな》えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石がいすの代わりに置《お》いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが五、六|枚《まい》、かまどの形に積《つ》んであったことである。なによりもまず火を燃《も》やさなければならぬ。
なによりも火がいちばんのごちそうだ。
さてまきだが、このうちでそれを見つけることは困難《こんなん》ではなかった。
わたしたちはただかべや屋根からまきを引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。
まもなくたき火の赤いほのおがえんえんと立った。むろん小屋はけむりでいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの欲《ほっ》しているのは火と熱《ねつ》であった。
わたしは両手をついて、腹《はら》ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り巻《ま》いて、首をのばして、ぬれた背中《せなか》を火にかざしていた。
ジョリクールはやっと親方の上着の下からのぞくだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを確《たし》かめて満足《まんぞく》したらしく、急いで地べたにとび下りて、たき火の前のいちばん上等な場所を占領《せんりょう》して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。
親方は用心深い、経験《けいけん》に積《つ》んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料《しょくりょう》を包《つつ》んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足《まんぞく》した。
情《なさ》けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯《ばんめし》に残《のこ》しておくほうが確実《かくじつ》だと考えたからであった。
わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それでかれらはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢《はいのう》に納《おさ》められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、そのひざがしらを引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。
背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめてねむる決心をした。カピは灰《はい》の中に鼻をつっこんでいた。わたしもかれらの例《れい》にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、ゆめの国にでも遊んだほうが気が利《き》いている。
わたしはどのくらいねむったか知らなかった。目が覚《さ》めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪はひじょうに深かった。無理《むり》に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。
何時だろう。
わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら例《れい》のカピが時間を示《しめ》した大きな銀時計は売られてしまった。かれは罰金《ばっきん》や裁判《さいばん》の費用《ひよう》をはらうためにありったけの金を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。
時計を見ることができないとすれば、日の加減《かげん》で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時だか時間を推量《すいりょう》するのが困難《こんなん》であった。
なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなりこおらせてしまったように思われた。
わたしは小屋の入口に立っていると、親方の呼《よ》ぶ声が聞こえた。
「これから出て行けると思うかな」とかれはたずねた。
「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」
「そうか、わたしはここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、たき火もあるのだから」
それはほんとうであったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。
「どうせまた雪は降《ふ》ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜はよけい寒くなる。今夜はここでくらすほうが無事《ぶじ》だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」
そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留《とうりゅう》するほかはない。胃《い》ぶくろのひもを固《かた》くしめておく、それだけのことだ。
夕飯《ゆうはん》に親方が残《のこ》りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも残《のこ》さず、がつがつして食べた。このつましい晩食《ばんしょく》がすんだとき、犬はまたさっきのようにあとねだりをするだろうと思っていたが、かれらはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらいかれら
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