や》から外へ出る気にもならずに、ぼんやりくらしてしまった。さるも犬もやはりすっかりしょげきっていた。
 やっとのことで三日目に一人の男が親方の手紙を届《とど》けて来た。その手紙によると、親方はこのつぎの土曜日に、警察権《けいさつけん》に反抗《はんこう》し、かつ巡査《じゅんさ》に手向かいをした科《とが》で裁判《さいばん》を受けるはずになっていた。
「わたしがかんしゃくを起こしたのは悪かった」と手紙に書いてあった。「とんだ災難《さいなん》を招《まね》いたがいまさらいたしかたもない。裁判所《さいばんしょ》へ来てごらん、教訓《きょうくん》になることがあるであろう」
 こういって、それからなお二、三の注意を書きそえて、自分に代わって犬やさるたちをかわいがってくれるようにと書いてあった。
 わたしが手紙を読んでいるあいだ、カピがわたしの両足の間にはいって、鼻を手紙にこすりつけて、くんくんやっていた。かれが尾《お》をふる具合で、わたしはかれがこの手紙が主人から来たことを知っていると思った。この三日のあいだにかれが少しでもうれしそうな様子を見せたのはこれが初《はじ》めてであった。
 わたしは土曜日の朝早く裁判所《さいばんしょ》に行って、いの一番に傍聴席《ぼうちょうせき》にはいった。巡査《じゅんさ》とのけんかを目撃《もくげき》した人たちの多くがやはり来ていた。わたしは裁判所に出るのがなんだかこわかったので、大きなストーブのかげにはいってかべにくっついて、できるだけ小さくからだをちぢめていた。
 どろぼうをして拘引《こういん》された男や、けんかをしてつかまった男が初《はじ》めに裁判《さいばん》を受けた。弁護人《べんごにん》は無罪《むざい》を言《い》い張《は》っていたけれど、それはみんな有罪《ゆうざい》を宣告《せんこく》された。
 いちばんおしまいに親方が引き出された。かれは二人の憲兵《けんぺい》の間にはさまってこしかけにかけていた。
 はじめにかれがなにを言ったか、人びとがかれになにをたずねたか、わたしはひじょうに興奮《こうふん》しきっていたのでよくわからなかった。
 わたしはただじっと親方を見ていた。
 かれはしらが頭を後ろに反《そ》らせて、まっすぐに立っていた。かれははじて苦んでいるように見えた。裁判官《さいばんかん》は尋問《じんもん》を始めた。
「おまえは、おまえを拘引《こういん》しようとした警官《けいかん》を何回も打ったことを承認《しょうにん》するか」と、裁判官は言った。
「何回も打ちはいたしません、閣下《かっか》」と親方は言った。「わたしはただ一度手を上げました。わたくしはいつもの演芸《えんげい》をいたしまする場所にまいりますと、ちょうど警官がわたくしの連《つ》れています子どもを地の上に打ちたおすところを見たのでございます」
「その子はおまえの子ではないだろう」
「はい、しかしわたくしの実子同様にかわいがっております。それで警官《けいかん》がかれを打ちますところを見て、わたしはかっととりのぼせまして、警官が打とうとする手をおさえました」
「おまえは警官を打ったろう」
「警官《けいかん》がわたくしに向かって手をあげましたから、わたくしはもはや警官としてではない、通常の人としてこれに向かってのであります。まったくいかりに乗じた結果《けっか》であります」
「おまえぐらいの年輩《ねんぱい》でいかりに乗ずるということはないはずだ」
「そうです。そういうはずはないのですが、人はおうおう不幸《ふこう》にして過失《かしつ》におちいりやすいのです」
 巡査《じゅんさ》はそれから自分の言い分を申し立てた。それは打たれたことよりも、より多く自分が嘲弄《ちょうろう》(あざける)された事実についてであった。
 親方の目はそのあいだ部屋《へや》の中を探《さが》すようであった。それはわたしがいるかどうか探しているのだということがわかっていたから、わたしは思い切ってかくれ場所からとび出して、おおぜいの中をおし分けながら、前へ出て、いちばん前の列の、かれの席《せき》に近い所へ出た。かれのさびしい顔はわたしを見るとかがやきだした。わたしの目にもなみだがあふれ出した。
 まもなく裁判《さいばん》は決まった。かれは二か月の禁固《きんこ》と、百フランの罰金《ばっきん》に処《しょ》せられることになった。
 ああ、二か月の禁固《きんこ》。
 ドアは開かれた。なみだにぬれた目の中からわたしは、かれが憲兵《けんぺい》のあとからついて行くのを見た。ドアはその後ろからばたんと閉《と》ざされた。ああ、二か月の別《わか》れ。
 どこへわたしは行こう。


     船の上

 わたしが重たい心で、赤い目をふきふき宿屋《やどや》に帰ると、ちょうど亭主《ていしゅ》が庭に出ていた。
 わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、かれはわたしを引き止めた。
「どうだ、親方は」とかれは言った。
「有罪《ゆうざい》の宣告《せんこく》を受けました」
「どのくらい」
「二か月の禁固《きんこ》です」
「罰金《ばっきん》はどのくらい」
「百フラン」
「二か月……百フラン」かれは二、三度くり返した。
 わたしはずんずん行こうとした。するとかれはまた引き止めた。
「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」
「ぼくはわかりません」
「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬やさるに食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」
「いいえ、ないのです」
「じゃあ、おまえはわたしが養《やしな》ってくれると思っているのか」
「いいえ、わたしはだれのやっかいになろうとも思いません」
 それはまったくであった。わたしはだれのやっかいにもなるつもりはなかった。
「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに借《か》りがある」とかれは言った。「わたしは二か月のあいだ金をはらってもらえるかどうかわからずに、おまえをとめておくことはできない。出て行ってもらわなければならないのだ」
「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」
「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」
 しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。亭主《ていしゅ》の言うことはもっともであった。どうしてかれがわたしの世話をしてくれよう。
「さあ、犬とさるを連《つ》れて出て行ってくれ。親方の荷物は預《あず》かっておく。親方が刑務所《けいむしょ》から出て来れば、いずれここへ寄《よ》るだろうし、そのときこちらの始末《しまつ》もつけてもらおう」
 このことばから、ある考えがわたしの心にうかんだ。
「いずれそのときはお勘定《かんじょう》をはらうことになるでしょうから、それまでわたしを置《お》いてはくださいませんか。その勘定にわたしのぶんも加《くわ》えてはらえばいいでしょう」
「おやおや、おまえの親方は二日分の食料《しょくりょう》ぐらいははらえるかもしれんが、二か月などはとてもとてもだ。そりやあまるで別《べつ》な話だよ」
「わたしはいくらでも少なく食べますから」
「だが、犬もいればさるもいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこかいなかで仕事を見つけて、金をもらって歩けばいいのだ」
「でも親方が刑務所《けいむしょ》から出て来たときに、どうしてわたしを探《さが》すでしょう。きっとこちらへ訪《たず》ねて来るにちがいありません」
「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」
「それでもし手紙が届《とど》いたら」
「手紙は取っておいてやるよ」
「でもわたしが返事を出さなかったら……」
「まあいつまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の猶予《ゆうよ》をやる。五分たってわたしが帰って来ても、まだここにいれば承知《しょうち》しないから」
 わたしはこの男と言い合うのはむだだということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。
 わたしは犬とジョリクールを連《つ》れにうまやへ行った。それから肩《かた》にハープをしょって、宿《やど》を出た。
 わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬に口輪《くちわ》がはめてないのだから、巡査《じゅんさ》にとがめられてもなんと答えようもなかった。わたしには金がないといおうか、それはまったくであった。わたしはかくしにたった十一スーしか持たなかった。それだけでは口輪を買うにも足りなかった。巡査がわたしを拘引《こういん》するかもしれない。親方もわたしも二人とも刑務所《けいむしょ》に入れられたら、犬やさるはどうなるだろう。わたしは自分の位置《いち》に責任《せきにん》を感じていた。
 わたしが足早に歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう見ちがえようもなかった。かれらは腹《はら》が減《へ》っていた。
 わたしの背嚢《はいのう》に乗っていたジョリクールは、しじゅうわたしの耳を引《ひ》っ張《ぱ》って無理《むり》に自分の顔を見させようとした。わたしが顔を向けると、かれはせっせと腹《はら》をかいて見せた。
 わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは朝飯《あさめし》を食べなかった。わたしの持っている十一スーでは昼食と晩食《ばんしょく》を食べるには足りなかった。そこでわたしたちは一食で両方|兼帯《けんたい》の昼食を食べて、満足《まんぞく》しなければならなかった。
 わたしたちは巡査《じゅんさ》に出っくわさないように、少しでも急いで市中をはなれなければならなかったから、どの道をどう行くなんていうことはかまわなかった。どの道を歩いても同じことであった。どこへ行っても食べるには金が要《い》るし、宿屋《やどや》へとまれば宿銭《やどせん》を取られる。それにねむる場所を見つけるくらいはたいしたことではなかった。このごろの暖《あたた》かい季節《きせつ》ではわたしたちは野天にねむることができた。
 さしせまっているのは食物だ。
 一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き続《つづ》けたあとで、やっと立ち止まることができた。そのあいだ犬たちはたのむような目つきでしじゅうわたしの顔を見た。ジョリクールは耳を引《ひ》っ張《ぱ》って、絶《た》えずおなかをさすっていた。
 とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋にとびこんだ。
 わたしは一|斤半《きんはん》パンを切ってくれと言った。
「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても要《い》りますよ」とおかみさんは言った。「それでもそれだけの同勢《どうぜい》にはたっぷりとは言えない。かわいそうに、畜生《ちくしょう》にはじゅうぶん食べさしておやんなさい」
 おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの財布《さいふ》にはたっぷりすぎた。
 パンは一|斤《きん》五スーであった。二斤買えば十スーになる。わたしはあしたどうなるかわからないのに、手もとを使いきるのはりこうなことではなかった。わたしはおかみさんに打ち明けて一斤半でたくさんだというわけを話して、それ以上《いじょう》を切《き》らないようにていねいにたのんだ。
 わたしは両うでにしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが髪《かみ》の毛《け》を引《ひ》っ張《ぱ》ってうれしそうにくっくっと笑《わら》った。
 わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。
 まっ先に目に当たった道ばたの木の下でわたしはハープを幹《みき》によせかけて、草の上にすわった。犬たちはわたしの向こうにすわった。カピはまん中に、ドルスとゼルビノはその両わきにすわった。くたびれていないジョリクールは、きょろきょろとうの目たかの目で、なんでもまっ先に一きれせしめようとねらっていた。
 パンを同じ大きさに分けるのはむずかしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さな
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