ったので、よけいこの男の人相《にんそう》を悪くした。
バルブレンのおっかあはまたおなべを火の上にのせた。
「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」とかれは言いながら、バターのはいったさらをつかんで、それをみんななべの中へあけてしまった。もうバターはなくなった……それで、もうどら焼《や》きもなくなったのだ。
これがほかの場合だったら、こんな災難《さいなん》に会えば、どんなにくやしかったかしれない。だが、わたしはもうどら焼《や》きもりんごの揚《あ》げ物《もの》も思わなかった。わたしの心の中にいっぱいになっている考えは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親だろうかということであった。
「ぼくのとっつぁん」――うっとりとわたしはこのことばを心の中でくり返した。
いったい父親というものはどんなものだろう、それをはっきりと考えたことはなかった。ただぼんやり、それはつまり、母親の声の大きいのくらいに考えていた。ところが、いま天から降《ふ》って来たこの男を見ると、わたしはひじょうにいやだったし、こわらしかった(おそろしかった)。
わたしがかれにだきつこうとすると、かれはつえでわたしをつきのけた。なぜだ。これがおっかあなら、だきつこうとする者をつきのけるようなことはしなかった。どうして、おっかあはいつだってわたしをしっかりとだきしめてくれた。
「これ、でくのぼうのようにそんな所につっ立っていないで、来て、さらでもならべろ」とかれは言った。
わたしはあわててそのとおりにしようとして、危《あぶ》なくたおれそこなった。スープはでき上がった。バルブレンのおっかあはそれをさらに入れた。
するとかれは炉《ろ》ばたから立ち上がって、食卓《しょくたく》の前にこしをかけて食べ始めた。合い間合い間には、じろじろわたしの顔を見るのであった。わたしはそれが気味が悪くって、食事がのどに通らなかった。わたしも横目でかれを見たが、向こうの目と出会うと、あわてて目をそらしてしまった。
「こいつはいつもこのくらいしか食わないのか」とかれはふいにこうたずねた。
「きっとおなかがいいんですよ」
「しょうがねえやつだなあ。こればかりしかはいらないようじゃあ」
バルブレンのおっかあは話をしたがらない様子であった。あちらこちらと働《はたら》き回って、ご亭主《ていしゅ》のお給仕《きゅうじ》ばかりしていた。
「てめえ、腹《はら》は減《へ》らねえのか」
「ええ」
「うん、じゃあすぐとこへはいってねろ。ねたらすぐねつけよ。早くしないとひどいぞ」
おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。しかしこの警告《けいこく》を待つまでもなかった。わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。
たいていのびんぼう人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり寝部屋《ねべや》をかねていた。炉《ろ》のそばには食事の道具が残《のこ》らずあった。食卓《しょくたく》もパンのはこもなべも食器《しょっき》だなもあった。そうして、部屋《へや》の向こうの角《かど》が寝部屋であった。一方の角にバルブレンのおっかあの大きな寝台《ねだい》があった。その向こうの角のくぼんだおし入れのような所にわたしの寝台があって、赤い模様《もよう》のカーテンがかかっていた。
わたしは急いでねまきに着かえて、ねどこにもぐりこんだ。けれど、とても目がくっつくものではなかった。わたしはひどくおどかされて、ひじょうにふゆかいであった。
どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。ほんとうにそうだったら、なぜ人をこんなにひどくあつかうのだろう。
わたしは鼻をかべにつけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐねむろうと骨《ほね》を折《お》ったがだめだった。まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。
どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしの寝台《ねだい》のそばに寄《よ》って来た。そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。
わたしはほおの上に温かい息を感じた。
「てめえ、もうねむったのか」とするどい声が言った。
わたしは返事をしないようにした。「ひどいぞ」と言ったおそろしいことばが、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。
「ねむっているんですよ」とおっかあが言った。「あの子はとこにはいるとすぐに目がくっつくのだから、だいじょうぶなにを言っても聞こえやしませんよ」
わたしはむろん、「いいえ、ねむっていません」と言わねばならないはずであったが、言えなかった。わたしはねむれと言いつけられた。それをまだねむらずにいた。わたしが悪かった。
「それでおまえさん、裁判
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