慨《ふんがい》と威圧《いあつ》の表情《ひょうじょう》がうかべていた。その顔つきを見ただけで巡査を地の下にもぐりこませるにはじゅうぶんであった。
 けれどもかれはどうして、そんなことはしなかった。かれは両うでを広げて親方ののど首をつかまえて、乱暴《らんぼう》に前へおし出した。
 ヴィタリス親方はよろよろとしてたおれかけたが、す早く立ち直って、平手で巡査のうで首を打った。
 親方はがんじょうな人ではあったが、なんといっても老人《ろうじん》であった。巡査《じゅんさ》のほうは年も若いし、もっとがんじょうであった。このけんかがどうなるか、長くは取っ組めまいと、わたしははらはらしていた。
 けれども取っ組むまでにはならなかった。
「あなたはどうしようというのです」
「わたしといっしょに来い」と巡査《じゅんさ》は言った。「拘引《こういん》するのだ」
「なぜあの子を打ったのです」と親方は質問《しつもん》した。
「よけいなことを言うな。ついて来い」
 親方は返事をしないで、わたしのほうをふり向いた。
「宿屋《やどや》へ帰っておいで」とかれは言った。「犬といっしょに待っておいで。あとで口上《こうじょう》で言って寄《よ》こすから(ことずてをするから)」
 かれはそのうえもうなにも言う機会《きかい》がなかった。巡査《じゅんさ》はかれを引きずって行った。
 こんなふうにして、親方が余興《よきょう》にしくんだ狂言《きょうげん》はあっけなく結末《けつまつ》がついた。
 犬たちは初《はじ》め主人のあとについて行こうとしたけれども、わたしが呼《よ》び返すと、服従《ふくじゅう》に慣《な》らされているので、かれらはわたしのほうへもどって来た。気をつけてみるとかれらは口輪《くちわ》をはめていた。けれどもそれはふつうの金あみや金輪《かなわ》ではなくって、ただ細い絹糸《きぬいと》を二、三本、鼻の回りに結《むす》びつけて、あごの下にふさを垂《た》らしてあった。白いカピは赤い糸を結《むす》んでいた。黒いゼルビノは白い糸を結んでいた。そうしてねずみ色のドルスは水色の糸を結んでいた。気のどくな親方はこんなふうにして、いかめしい権力《けんりょく》の命令《めいれい》を逆《ぎゃく》に喜劇《きげき》の種《たね》に利用《りよう》しようとしていたのである。
 群衆《ぐんしゅう》はさっそく散《ち》ってしまった。二、三人ひま人《じん》が残《のこ》っていまの事件《じけん》を論《ろん》じ合っていた。
「あのじいさんがもっともだよ」
「いや、あの男がまちがっている」
「なんだって巡査《じゅんさ》は子どもを打ったのだ。子どもはなにもしやしなかった。ひと言だって口をききはしなかった」
「とんだ災難《さいなん》さ。巡査に反抗《はんこう》したことを証明《しょうめい》すれば、あのじいさんは刑務所《けいむしょ》へやられるだろう、きっと」
 わたしはがっかりして宿屋《やどや》へ帰った。
 わたしはこのころでは毎日だんだんと親方が好《す》きになっていた。わたしたちは朝から晩《ばん》までいっしょにくらしてきた。どうかすると夜から朝までも同じわらのねどこにねむっていた。どんな父親だって、かれがわたしに見せたような行《ゆ》き届《とど》いた注意をその子どもに見せることはできなかった。かれはわたしに字を読むことも、計算することも教えてくれたし、歌を歌うことも教えてくれた。長い流浪《るろう》の旅のあいだに、かれはこのことあのことといろいろにしこんでくれた。たいへん寒い日には、毛布《もうふ》を半分わけてくれたし、暑い日にはいつもわたしの代わりに荷物をかついでくれた。それから食事のときでもかれはけっして、自分がいい所を食べて悪い所をわたしにくれるというようなことはしなかった。それどころか、かれはいい所も悪い所も同じように分けてくれた。なるほどときどきはわたしがいやなほど、ひどく乱暴《らんぼう》に耳を引《ひ》っ張《ぱ》ることもあったけれど、わたしに過失《かしつ》があれば、それもしかたがなかった。一|言《ごん》で言えばわたしはかれを愛《あい》していたし、かれはわたしを愛していた。
 だからこの別《わか》れはわたしにはなによりつらいことであった。
 いつまたいっしょになれるだろうか。
 いったいどのくらい牢屋《ろうや》へ入れておくつもりなのだろう。
 そのあいだわたしはどうしたらいいだろう。どうして生きてゆこう。
 ヴィタリス親方はいつもからだに金《かね》をつけている習慣《しゅうかん》であった。それが引《ひ》っ張《ぱ》られて行くときになにもわたしに置《お》いて行くひまがなかった。
 わたしはかくしに五、六スーしか持っていなかった。それだけでジョリクールと犬とわたしの食べるだけの物が買えようか。
 わたしはそれから二日のあいだ、宿屋《やど
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