そのひまな時間だけであった。
 毎日決まった道のりだけは歩いて行かなければならなかった。もっともその道のりは村と村との間が遠いか近いか、それによって長くもなり短くもなった。いくらかでも、収入《しゅうにゅう》のある機会《きかい》を見つけしだい、そこで止まって芝居《しばい》をうたなければならなかった。犬たちやジョリクール氏《し》に役々の復習《ふくしゅう》をもさせなければならなかった。朝飯《あさめし》も昼飯《ひるめし》もてんでんに自分で用意しなければならなかった。読書なり音楽なりの仕事は、つまりそういうもののすんだあとのことであった。まあいちばんよく教えてもちったのは、休憩《きゅうけい》の時間で、木の根かたや、小砂利《こじゃり》の山の上や、または芝生《しばふ》なり、道ばたの草の上が、みんなわたしの木ぎれをならべる机《つくえ》が代わりになった。
 この教育法《きょういくほう》はふつうの子どもの受けるそれとは、少しも似《に》たところがなかった。ふつうの子どもなら、ただ勉強するほかに仕事はないし、それでもかれらはしじゅうあたえられた宿題《しゅくだい》をやる時間がないといって、ぶつぶつ言うのである。
 けれど、勉強に使う時間のあるなしよりも、もっとたいせつなものがあった。それはその仕事に専念《せんねん》するということであった。授《さず》かった課業《かぎょう》を覚《おぼ》えるのは、覚えるために費《ついや》される時間ではなくって、それは覚えたいと思う熱心《ねっしん》であった。
 幸いにわたしは、ぐるりに起こる出来事に心をうばわれることなしに、むちゅうに勉強のできるたちであった。もしそのじぶんわたしが、部屋《へや》の中に閉《と》じこもって、両手で耳をふさいで、目を本にはりつけたようにしているのでなければ、勉強のできない生徒《せいと》のようであったら、わたしになにができたろう、なにもできはしない。なぜというに、わたしには、閉じこもる部屋もなかった。往来《おうらい》に沿《そ》って前へ前へと進みながら、ときどきもうつまずいてたおれそうになるほど痛《いた》い足の先を、見つめ見つめしてゆかなければならなかった。
 だんだんわたしはおかげでいろんなことを覚《おぼ》えた。と同時に親方の授《さず》けてくれた課業《かぎょう》以上《いじょう》に有益《ゆうえき》な長い旅行をした。わたしがバルブレンのおっかあの所にいたじぶんには、ごくやせっぽちな子どもであった。みんながわたしを見て言ったことばで、その様子はよくわかる。「町の子どもだ」と、バルブレンは言ったし、「ひどくひょろひょろした手足の子だ」と親方は言った。
 ところが親方のあとについて、広い青空の下に困難《こんなん》な生活を続《つづ》けているあいだに、わたしの手足は強くなり、肺臓《はいぞう》は発達《はったつ》し、皮膚《ひふ》は厚《あつ》くなり、ちょうどかぶとをかぶったように寒さをも暑さをもしのぐことができるようになった。
 こうして、このつらいお弟子《でし》修業《しゅぎょう》のおかげで、わたしは少年時代に、たいていの困難《こんなん》に打ち勝ってゆく力を養《やしな》うことのできたのは、あとで思えばひじょうな幸福であった。


     山こえて谷こえて

 わたしたちはフランスの中央《ちゅうおう》の一部、たとえばローヴェルニュ、ル・ヴレー、ル・リヴァレー、ル・ケルシー、ル・ルーエルグ、レ・セヴェンネ、ル・ラングドックというような土地土地をめぐって歩いた。
 わたしたちの流行はしごく簡単《かんたん》であった。どこでもかまわずまっすぐに出かけて行って、あまりびんぼうでない町だと見ると、まず行列を作る用意を始めて、犬たちに着物を着せかえてやり、ドルスの髪《かみ》にくしを入れてやる。カピが老兵《ろうへい》の役をやっているときは、目の上に包帯《ほうたい》をしてやる。最後《さいご》にいやがるジョリクールに大将《たいしょう》の軍服《ぐんぷく》を着せる。これがなによりいちばんやっかいな仕事であった。なぜというにこのさるは、これが仕事にかかるまえぶれだということを知りすぎるほど知っていて、なんでも着物を着させまいとするために、それはおかしな芸当《げいとう》を考え出すのであった。そこでわたしはしかたがないからカピを加勢《かせい》に呼《よ》んで来て、二人がかりでどうやらこうやらおさえつけて、言うことを聞かせるのであった。
 さて一座《いちざ》残《のこ》らずの仕度ができあがると、ヴィタリス親方は例《れい》のふえでマーチをふきながら村の中へはいって行く。
 そこでわれわれのあとからついて来る群衆《ぐんしゅう》の数が相応《そうおう》になると、さっそく演芸《えんげい》を始めるが、ほんの二、三人気まぐれな冷《ひ》やかしのお客だけだとみると、わざわざ
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