れのくちびるは動かなくなった。かれの目はきょろきょろとあてもなく迷《まよ》ったが、本にはもどって来なかった。
 ふとかれの目はわたしの目を見つけた。
 わたしは課業《かぎょう》を続《つづ》けてやるようにかれに目くばせした。かれは注意を感謝《かんしゃ》するように微笑《びしょう》した。そしてまた本を読み始めた。けれどもまえのようにやはりかれは考えを一つに集めることができなかった。かれの目は川のこちらの岸から向こう岸へと迷《まよ》い始めた。ちょうどそのとき一|羽《わ》のかわせみが矢のように早く船の上をかすめて、青い光をひらめかしながら飛んだ。
 アーサは頭を上げてその行くえを見送った。鳥が行ってしまうと、かれはわたしのほうをながめた。
「ぼく、これが覚《おぼ》えられない」とかれは言った。「でもぼく、覚《おぼ》えたいんだ」
 わたしはかれのそばへ行った。
「この話はそんなにむずかしくはありませんよ」とわたしは言った。
「うん、むずかしい。……たいへんむずかしいんだ」
「ぼくにはずいぶん易《やさ》しいと思えますよ。あなたのお母さまが読んでいらっしゃるときに聞いていて、ぼくはたいてい覚《おぼ》えました」
 かれはそれを信《しん》じないように微笑《びしょう》した。
「言ってみましょうか」
「できるもんか」
「やってみましょうか。本を持っていらっしゃい」
 かれはまた本を取り上げた。わたしはその話を暗唱《あんしょう》し始めた。わたしはほとんど完全《かんぜん》に覚《おぼ》えていた。
「やあきみ、知っているの」
「そんなによくは知りません。けれどこのつぎのときまでには、一つもちがえずに言えるでしょう」
「どうして覚《おぼ》えたの」
「あなたのお母さまが読んでいらっしゃるあいだ、ぼくは聞いていました。ただいっしょうけんめいに、そこらの物を見向したりなんぞせずに、聞いていたのです」
 かれは顔を赤くした、そして目をそらした。
「ぼくもきみのようにやってみよう」とかれは言った。「けれど一々のことばをどうしてそう覚《おぼ》えたか、言って聞かしてくれたまえ」
 わたしはそれをどう説明《せつめい》していいかわからなかった。そんなことを考えてみたことはなかった。けれどやれるだけは説明してみた。
「このお話はなんの話でしょう」とわたしは言った。「ひつじのことでしょう。ねえ、だからなにより先にぼくはひつ
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