いるだろう。あすこへは港をはなれて行く船がある。川のまん中にいる船が満潮にかじを向けるようなふうに、いかりの上でくるくる回っている。けむりの雲の中を走って行く船は引き船だ」
 わたしにとってはなんということばであろう。なんという目新しい事実であろう。
 わたしたちが、パスチードとボルドーを通じている橋の所へ来るまでに、親方はわたしが聞きたいと思った質問《しつもん》の百分の一に答えるだけのひまもなかった。
 これまでわたしたちはけっしてとちゅうの町で長逗留《ながとうりゅう》をすることはなかった。なぜというに、しじゅう見物をかえる必要《ひつよう》から、しぜん毎日|興行《こうぎょう》の場所をも変《か》えなければならなかった。それに『名高いヴィタリス親方の一座《いちざ》』の役者では、狂言《きょうげん》の芸題《げいだい》をいろいろにかえてゆく自由がきかなかった。『ジョリクール氏《し》の家来』『大将《たいしょう》の死』『正義《せいぎ》の勝利《しょうり》』『下剤《げざい》をかけた病人』、そのほか三、四|種《しゅ》の芝居《しばい》をやってしまえば、もうおしまいであった。それで一座《いちざ》の役者の芸《げい》は種切《たねぎ》れであった。そこでまた場所を変《か》えて、まだ見ない見物の前で、これらの狂言《きょうげん》を、相変《あいか》わらず、『下剤をかけた病人』か、『正義の勝利』をやらなければならなかった。
 しかし、ボルドーは大都会である。見物は容易《ようい》に入れかわったし、場所さえ変えると毎日三、四回の興行《こうぎょう》をすることができた。それでもカオールに行ったときのように、『いつでも同じことばかりだ』とどなられるようなことはなかった。
 ボルドーを打ち上げてから、わたしたちはポーへ行かなければならなかった。そのとちゅうでは大きなさばくをこえなければならなかった。さばくはボルドーの町の門からピレネーの連山《れんざん》まで続《つづ》いていて、『ランド』という名で呼《よ》ばれていた。
 もうわたしもおとぎ話にある若《わか》いはつかねずみのように、見るもの聞くものが驚嘆《きょうたん》や恐怖《きょうふ》の種《たね》になるというようなことはなかった。それでもわたしはこの旅行の初《はじ》めから、親方を笑《わら》わせるような失敗《しっぱい》を演《えん》じて、ポーに着くまで、そのためなぶられどお
前へ 次へ
全160ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング