へ行くのはやめて、皆と家《うち》にいたいんだけどな。」
 彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。
「お父様、その娘にあったら、よろしくいって下さいね。」
 ギイ・クラアレンスは、靴脱のところで跳ねまわりながらいいました。
 戸を閉めて、室内《へや》に戻る道々、ジャネットは、ノラにいいました。
「あの『乞食じゃアない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私達の方を見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持の人からもらったもののようですって――きっと、もういたんで着られなくなったから、あの子にやったのね。」
 セエラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。
「ギイ・クラアレンスのいったその娘というのは、誰なのかしら?」

      十四 メルチセデクの見聞記

 ちょうどこの日の午後、セエラが使に出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを見聞《みきき》したのはメルチセデクだけでした。彼はセエラの出た後へ、何か嗅ぎ出しに出かけて来ていたのでしたが、やっと一つパン屑を見付け出したとたん、屋根の上で何かがたがたというのを耳にしました。物音はだんだん天窓に近づいたと思うと、不思議や天窓は押し開かれ、黒い顔が一つ、そこから部屋の中を覗きました。続いてまた別な顔が、その背後《うしろ》に現れました。黒い顔はラム・ダスで、もう一人は印度の紳士の秘書役だったのですが、メルチセデクにはそんなことは判るはずもありませんので、黒い顔の男がかた[#「かた」に傍点]とも音を立てずに、軽々と窓口から下りて来るのを見ると、尻尾をまいて、自分の穴へ逃げ帰ってしまいました。彼は穴の口に平たく坐り、眼をお皿のようにして、様子を見ていました。
 若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに天窓から辷《すべ》りこんで来ました。彼はメルチセデクの尻尾をひっこめるところを、ちらと見て、小声でラム・ダスに訊きました。
「ありゃア鼠かい?」
「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」
「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」
 ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセエラと話したことはないのですが、セエラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。
「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来る小《ちい》ちゃな子もございます。それから、その子よりは大きい子で、あの子の話を倦《あ》きもせず聞いている子も一人ございます。女主人などは、あの子をまるで非人《ペエリア》扱いにしていますが、でも、あの子は王族の血でもひいてるような挙止《ものごし》をしています。」
「君は、だいぶ詳しく知っているようだね。」
「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供達が忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ判りますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」
「でも君、大丈夫かい? 誰か来やアしないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕達が来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」
 ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。
「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」
「じゃア、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」
 秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き廻って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまず寝台をおさえて、思わず声をあげました。
「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」
 彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見廻り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。
「だが、妙なことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」
「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互に一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの天窓の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。御主人にそれをお話しますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と仰しゃるのでした。」
「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚しでもすると――」
「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやり了《おお》せてごらんに入れます。あの子はあとで眼を覚して、魔法使でも来ていたのだろうと思うでございましょう。」
 二人は、またそっと天窓から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パン切でも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け廻りはじめました。

      十五 魔法

 セエラがお使から帰ってくると、隣家《となり》では、ラム・ダスが鎧戸を閉めているところでした。セエラは鎧戸の間から、ちらと部屋の中を覗きました。覗く拍子に、もうずいぶん長いこと綺麗な部屋の中に入ったことはないなと思いました。
 窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。
「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」
 紳士が考えていたのは、次のような事でした。
「もし――せっかくカアマイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」
 セエラは家《うち》に入ると、いきなりミンチン先生に、遅いといって叱られました。料理番も叱られたあとだったので、殊更ひどくセエラにあたりました。
「あの、何かいただけませんか?」
 セエラは元気のない声で訊ねました。
「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」
「私、お午飯《ひる》もいただきませんでしたの。」
「戸棚の中にパンがあるよ。」
 セエラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セエラは疲れていました。セエラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアアミンガアドが来ているのでしょう。セエラはまるまるとしたアアミンガアドが赤いショオルにくるまっているのを見るだけでも、侘《わび》しい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。
 アアミンガアドはセエラを見ると、寝台の上からいいました。
「セエラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら逐っても、私のそばへやって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、私怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」
「いいえ。」と、セエラは答えました。
「セエラさん、あなた大変疲れてるようね。顔色が大変悪いわ。」
「とても疲れちゃったわ。」セエラは跛《びっこ》の足台にぐたりと坐りました。「おや、メルチセデクがいるのね。可哀そうに、きっと御飯をもらいに出て来たのだわ。でも、今夜は一|片《かけ》も残っていないのよ。帰ったらおかみさんに、私のポケットには何にもなかったといっておくれ。あんまり皆に辛くあたられたので、お前のことは忘れてしまって、悪かったわね。」
 メルチセデクは、どうやら合点がいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。
「アアミイ、今夜会えようとは思わなかってよ。」と、セエラはいいました。
「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」
 アアミンガアドは、天窓の下のテエブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、
「お父様がまた本を送って下すったの。」といいました。セエラはたちまちテエブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もう一日の辛さなどは、すっかり忘れていました。
「何て綺麗な本でしょう。カアライルの『フランス革命史』ね。私、これをよみたくてたまらなかったのよ。」
「私ちっともよみたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みに家《うち》に帰るまでに、すっかり憶えさせようってつもりなのよ。私どうしたらいいでしょう。」
「こうしたら、どう? 私がよんで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」
「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」
「出来ると思うわ。小さい人達は、私のお話をよく憶えてるじゃアないの。」
「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」
「私、あなたから何にもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」
「じゃアあげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃアないの。ところが、お父様は御自分が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」
「私に本を下すったりして、あとでお父様に何て仰しゃるつもり?」
「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、よんだのだと思うでしょう。」
「そんな嘘をいうものじゃアないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、御本を読んだのは、セエラだと仰しゃればいいじゃアないの?」
「でも、パパは私に読ませたいのよ。」
「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃア、よんだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」
「どのみち、憶えさえすりゃアいいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」
「でも、あなたが悪いからじゃアないわ。あなたの――」
 頭の悪いのは、と危《あぶな》くいいかけて、セエラは口を噤《つぐ》みました。
「私が、どうしたの?」
「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃアないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かアないのよ。親切なことの方が、どんなに値打があるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだから皆に嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって――憶えてるでしょう? いつかお話してあげたロベスピエルのこと。」
「そうね、少しは憶えてるけど。」
「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまる
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