るのだと思って、お気を静めて下さい。」
「あれは、いつも娘のことを『小さい奥様』と呼んでいた。だが、あの鉱山奴《やまめ》のおかげで、我々は何もかも忘れてしまったのだ。あれは娘の学校の話をしたかもしれない。が、私は忘れてしまった。すっかり忘れてしまった。どうしても思い出せない。」
「しかし、まだその娘を見付けることは出来ます。パスカル夫人の所謂《いわゆる》『御親切なロシヤ人』の捜索を続けるんですな。あの女は、何だかモスコウにいるような気がするといっていましたよ。それを手がかりとして、とにかく、私はモスコウへ行ってみることにしましょう。」
「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルウ大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付だ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。君、あれがどんなことを訊くと思う?」
「よくわかりませんね。」
「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥様はどこにいるのだい?』とね。」彼はカアマイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あの娘を見付けてくれ。頼む。」
* * *
* * *
壁の向うでは、セエラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。
「メルチセデクや、今日という今日は、宮様《プリンセス》のつもり[#「つもり」に傍点]も辛かったわよ。いつもどころの辛さじゃアなかったわよ。だんだん寒くなって、往来がじめじめして来ると、私の務は辛くなるばかりだわ。ラヴィニアったら、私が裾を泥んこにしているって、嗤うのよ。私、思わずかっとして、危《あぶな》く何かやり返してやるところだったけど――でも、やっと我慢したの。かりにも宮様《プリンセス》が、ラヴィニアみたいな下等な人の相手になるわけにはいきませんものね。でも、舌でも噛まなきゃア我慢出来なかったわ、私自分の舌を噛んだの。今日はお午《ひる》すぎから、とても、寒くなったのね。今夜も寒いわ。」
ふと、セエラは黒髪を両手の中に埋《うず》めました。彼女は一人だと、よく頭を抱えるのでした。
「ああお父様、もうずいぶん昔だわね、私がお父様の『小さな奥様』だったのは。」
同じ日のうちに、壁の向うとこちらとに、こんなことが起ったのでした。
十三 人の子
惨めな冬でした。セエラは幾日となく雪を踏んで使に出ました。雪解《ゆきどけ》の日は、更に使い歩きが辛いのでした。かと思うと、ひどい霧の日が続きました。そんな時、街路は幾年か前セエラが初めて父と辻馬車を走らせた時のようでした。そんな日には、あの大屋敷の窓は、殊にも居心地よさそうに見えました。印度紳士のいる書斎は、いかにも温かそうでした。それにひきかえ、屋根裏部屋の暗さといったらありませんでした。もう眺めようとしても、夕焼や日の出は見られませんでした。星もあるとは思えませんでした。雲は低く、泥のような灰色でした。霧はなくても四時にはもう日が暮れた感じで、蝋燭なしには、梯子を登ることも出来ませんでした。台所の女中達も、気がくさくさするとみえ、ますます辛くあたりました。ベッキイはまるで奴隷の子のように逐い使われました。
「お嬢様、あんたでもいなかった日には――あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもり[#「つもり」に傍点]だのがなかった日には、私死んじまいそうだわ。この頃はここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守頭みたいになってくるし、私、いつかお嬢様の仰しゃった大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢様、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」
「何かもっと温かいお話がいいわ。」セエラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、寝台の上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」
「そのお話の方が温かいことは温かいわ。でも、お嬢様が話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」
「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私こう思うのよ。心の職務《つとめ》は、身体が可哀そうな状態にある時、何かほかへ気を向けさせるようにすることだと。」
「そんなこと、あんたに出来て?」
「出来ることもあるし、出来ないこと
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