間であったら、あるいはそのおいしい御馳走と、暖い炉ばたと、安楽な眠りとに誘われて、止ったかもしれません。が、しかしパトラッシュは、この老いたフランダースの犬は、遠い昔を忘れてはいませんでした。あのおじいさんと幼児とが、道ばたの泥溝《どろみぞ》に息絶った自分を救い上げ、見守ってくれたその遠い昔を。
 そとは吹雪でした。もう十時でしょう。ネルロの足跡は大方消えてしまっているので、匂いを嗅いで足跡を辿って行くパトラッシュの苦心は実にいたましいようでした。ようやく見つけ出す、すぐ消えている、また探し出す、また見失う、そんなことを百度以上もくりかえしつつ、パトラッシュははしりつづけました。この一寸先も見えない吹雪の夜を、饑えと寒さによろめきながらパトラッシュは、ただ主人を探し出すという一途な愛に支えられて走りつづけて行くのでした。ネルロの足跡は、吹雪にかき消されてはいるものの、とにかくまっすぐにアントワープに向っていることだけは分ります。パトラッシュがやっとの思いでアントワープの町はずれまで辿りつきそれから狭い曲りくねった道に入った時は、もう真夜中をすぎていました。町の中もまっくらでただ、ところどころ戸の隙間から細いあかりがもれているだけでした。酔っぱらいの歌声がどこかで起って、そして消えて行きました。しんとしずまりかえった中に、風だけが街燈の高い鉄柱につきあたって、すさまじいひびきをたてるのでした。ネルロの足跡はこの町に入ってから、大ぜいの通行人の足跡にまじり合い、ふみにじられて、それを拾って行くのは、今までより、もっともっと困難でした。寒さが骨までしみ通り、足は凍った角で傷つきました。而もパトラッシュは、恐ろしいほどの忍耐を以て、ネルロの跡を嗅ぎ求めて行きました。
 こうして、堪えに堪えて、パトラッシュはついに愛する主人の足跡を追って、町の中央の旧教寺院の入口までのぼりついたのでした。ああ、ここは、一番慕っていたところだ、と、犬は思いました。ネルロが芸術というものに憧れている心持は、パトラッシュには分らないながら、なにか、哀れにかなしく、そして神々しくかんじられたのでした。
 大寺院の門は、真夜中の集まりがすんだあと、扉《ドア》が閉じていませんでした。門番が、早くかえって御馳走が食べたかったか、それとも眠くて鍵をかけ損ねて気づかなかったのか、なにかそんな手抜かりがあったか
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