私が駈けて、そしてあの断崖の近くへ迄行きついた事実丈である。私は風で揺れ廻る長い草の中に身をひれ伏し、雲が低く動く空へ声を放って泣いた。心は狂い、苦しみ、鞭打たれた。眼は何か黒い流れや斑紋を幻覚し、あらゆる血管を後悔の蛆が游ぐのを知覚した。
 微笑! それが恐ろしいのである。何んな怒りの形相が私をそんなに迄身顫いさせ得るだろうか? 誠実な微笑! 私の体は痛み、私の身は皮を剥がれた蛇のように藻掻いている。その微笑! 一番純真なものが、私の汚れた行為に対して報いられている。ああ、その一瞬の微笑に一生の生命が賭けられている。そんなにも価値の重い深遠な荘重な戒めが何処に又とあろうか。
「私は後悔しています。けれど心の底から貴方を愛しています。」と語りそうな微笑! 私は今後何うしてそれに報いる事が出来るであろう。いや、何も考えられない。そしてもう何も出来ない。彼の女は最早死んでいるではないか? 私は何かしようとして動いている。けれど、一切はもう遅れている。晩過ぎる、それ丈が漸く分るのだ。
 私は風に揺れる草の中に転んで何者かに許しを乞うた。皮を剥がれた罪深い蛇のように、自分の浅間しい体に驚いては
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