足どりをして紫色の室を去って行って了ったのである。
私は独りになってから一層興奮した。眠れぬ眼を大きく開くと、沈思しつつ室を歩いた。
「そうだ。あの壺には何の訳もないのだ。院長は恋を打ち明けそこなったら、あの壺でも見せて、それを室へ忍び寄った理由にしようと用心して来たのだ。」此の考察は正しい如くに見えた。何故なら、彼は帰りしなに斯う云ったからである。
「……此の壺は秘密にして蔵ってあるんだ。それでないと警察へ取り上げられて了うんだ。人の骨が入っているんだからね。それで誰にも見せないんだが、まあ、お前丈にはな……」
私はそんな壺を見せて貰える程に、院長から好意を持たれているのが、矢張り厭であった。壺の中の人骨を見た事、院長が室へ侵入した事、之等の不快な事実が私を粗暴な感情へと導かずには置かなかった。「畜生! 私は……あの婦人病患者と関係してやろう。」腹立ちまぎれに、そう決心したのは其の夜の明け方であった。私は割合臆病な人間であったので、私が一つ悪事を働く前には、必ずそれを起させる誘導的な凶事が先駆せねばならなかったらしい。院長に心を乱された事が私を再び悪い情熱へと追いやって行ったのである。考えれば、皆壺の骨に根本の罪が秘《ひそ》むのであった。
木偶流動
私はその後も出来る丈心を平静にして、むしろ沈鬱な日を過した。其の間に起った不慮な事件は幾つかを数え出される事が出来よう。けれどその中で一番大きな二つを選ぶならば院長の急死と、院長の子息の怪我であった。斯う並べると人間は全くヒ弱い構造を持ったものだと云う考えで悲しまされよう。だが其れに間違いがあろうか。大体の事を話せば、子息の方は今迄何処かの水産講習所や臨海実験場へ行って居たのであるが、最近に海岸の漁師達と知り合いになって、彼等が漁に出る時、その舟へ同乗させて貰ったのが悪かったのである。此の漁師達が或る魚の大きい群を見出した時、他の側に居た漁船も其れを見附けたので、両方の漁師は到頭舟を接して殴り合いを初めるに至ったのである。院長の子息は一緒になって、殴ったり殴られたりしたが、終いに頬骨を打たれて気絶したのだと云われている。斯う書いて来ると人間が全く木偶のように思えてならぬではないか。実際人間は振り子の調子につれて、カタカタと動きパタリと倒れる木偶《でく》のようではないか。私は自分が以前あの例の娘を見初めて通いつくした頃もそんな考えに苦しめられたものである。私が歩いて行くと、娘の方も表れる。私が近附くと向うが隠れ、私が遠のくと向うがバタバタとついて来たのではないか。
「畜生。」此の頃でも私は自分を木偶以上に進歩させたとは思えない。現にあの婦人病患者がバタバタとやって来る。私はそれが心に響く。ガタガタと動く漁師の喧嘩場が眼の前に浮き上がる。愛するために近づき合い、争うために吸引し合う其れ等の事象は意識もなにも持っては居ない自然現象のようではないか。
若い人達が内省的な心理学をきらって、唯表面の変化丈を観察し、検定する事で、外面的心理学を樹立させようといきまくのはきっと彼等も私と同じような「木偶感」に縛されているからであろう。一切の形容詞を抜き去り、出来る丈動詞を多く使って日記を書き、或いは小説のようなものを書こうとする人があれば、彼も亦「木偶感」に憑かれている事が直ぐ分る筈である。
院長は、バタバタと死んでしまった。この情景は唯スクリーンの上の映画に過ぎない。うしろへ廻っても霊なぞを踏みつぶすような危険もなにもありはしない。之は何だか厭な事実ではないか。ふり返って見ると、彼の残したのは莫大な借財丈であった。鼻柱の折れた子息は寝台の上で落ち着いては居られなかった。彼は振り子のように寝返りを打った。令嬢は兄を気づかったり、私を懐ったりして唯廊下を足音で響かせていた。
「何がバタバタだ。畜生共!」と私は時々独語せねばならなかった。
病院は愈よ維持の困難を感じていた。院長はあんなに大きな借財をして居乍ら、何うしてあんなに呑気にしていたか? 此の点は私の大きな疑問となって残った。ことによったら彼は自殺して了ったのではなかろうか? 此の疑念は死を残忍視する私にとって当然のものであらねばならぬ。
私は病院に飼われていた間中、遊び通していた訳ではなかった。へり下った心で受附け掛りもし、薬局へ入っては坐薬をねったり、消毒ガーゼを造ったりして働いていたのである。けれど院長が死んで、子息が暗い顔をしているのを見ると、もはや私が此処に留まる事はよくないように思われた。気の利いた私は半分無断で病院を去った。そして子息は大変にこの事を喜んでいたと私丈で推察した。
三ケ月後、私は到頭あの婦人病患者――もう治って太り返っているが――と関係して了った。けれど、それと同時に彼の女の妹とも関係する
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