、さあ、冷えない方へ……」やっと私は囁いたのである。
「私を女中以上に取扱ってはいけません……ああ身分が違う……私は悪い所から出て来た女です……」彼の女は悲しさで歯を喰いしばり、漸くに之丈を口走って眼を閉じて了った。
「その儘で沢山だ! 構わないが好い!」他の室で、未だ覚めていたらしい母が口を入れた。私は母親に大変な孝行な質――自分で云うのは可笑しいが、何んな曲った事でも母の命令なら従うように生れついた男――であった。それも、此の場合では大きな過誤の一つとなったのである。そして私は私の心を噛んでいるのだ。
 私は労れ切って、悪い夢の中に一夜を明した。次の朝、母より先へ眼を覚ますと、私はミサ子の代りに戸を明けてやった。明るく流れ込んだ光線は一切を明白に指し示した。ああミサ子はもう私の家の私の妻ではなかったのである。
 母は幾らか後悔しつつ、尚怒りを止めなかった。「何処迄人に世話をかけるのだ。もう捨てて置くが好い! あれはお前、不良な少女だよ。改心と懺悔を売物にし、家出をおどかしに使う、そんな少女なんだよ。」
 それから母は大変不安な焦躁を示しつつ殆ど狂的――そんな例を私は未だ私の母に於いて見た覚えがない――と思われる迄、身を取り乱して、大きい小さい荷物を片附け出したのである。それは何のためか私の解釈に苦しむ所であった。母は斯んな忌わしい方角の家は捨てて、新しい幸福な所へ住み替え、悪い思い出を一切打ち消したいと丈語るのであった。私は何も分らずに、其の命令を受け入れねばならなかった。庭に植えてある色々の草花を鉢へ移したり、ミサ子の下駄を取り上げて見たりして、私はいくらでも尽きずに出て来る悲しみを泣く事が出来た。
 警察の方へは早速ミサ子の捜索願いを出した。
 移転をしてから十五日目――ああ何と云う空漠とした、然も紛乱した心持の十五日であったろう――が過ぎた時である。警察官が突然私を訪ねて来た。
「おおミサ子は何処に居りましたか?」私は恋しい女性の居所を知る事さえ、いやその歩いた道を知る事さえ、胸の裂けそうな喜びであった。
「いや、その事ではないのです。実は伺いたい点があるのです。そのミサ子と云う方――即ち貴方の妻――は妊娠して居ったでしょうな。」
「はい、現在妊娠しているのです。」
「実は申し上げにくいが、以前貴方の棲んで居た家の縁の下にですね、女の――若い女の衣服で包んだ、胎児の屍体が隠してあって、それが匂い出した為め、近所の大騒ぎになっているんです。」
 おお、之が本統の事であろうか? ミサ子は家出したのである……家出……家出と犯罪……そして転居……転居と犯罪……警察官の嫌疑は当然であった。
 ミサ子はその行衛を見附けられなかった。そして、彼の女が居たと叫ばれた時には、もう元通りの彼の女ではなかったであろう。何んなに私の記憶が乱れようと、それ丈は確かな事である。
 彼の女は横って居た。彼の女は骨を砕いていた。そして、そして何か? そして、もう妊娠もしていなかったのである。この事が死の重大な原因であったのか? 何? いや原因ではない。寧ろ結果と云うベきであろう。実に、実に悲しむ可く痛ましい結果。結果として表われた事実なのではないか。
「お母さん。貴方は知っていたんですか。」私は斯う尋ねて眼を閉じた。
「知らない。知らない。この事はすべて秘密だらけです……第一、全体、それは誰の子なのです?」
 私は息が詰まった。誰の子? 神よ、貴方は私に子を授けて下さった。それだのに、私はそれを受け取れなかった。何故か? 一寸した行きがかり――一寸した不注意――一寸した愛の不足! ああそれは原因でもあり、結果でもあるのだ。
 下さるものを拒んだのが間違いの原因であった。いや原因はもっと前にある。之は寧ろもう結果に近い一つの過失ではなかったか?
 私は明晰には考えられない。何故なら……いや何故ならではない。之は何かしらあのセルロイド職工に、又あの断崖に関係していたに相違ない。私が悲しい足取りで、あの職工を呼びに行き、彼にミサ子の死に際を見せてやり、又ミサ子の霊へ一つの重要なそして最後の思い出を土産として持たせてやったのも、実に、私がそんなに漠然とした関係を直覚したからであった。
 私は何うしよう。又分らなくなっている。ミサ子は私を恨めし相に睨めた。
 そしてセルロイド職工を微笑みを以て眺めた。そして誰れが彼の女を殺したのであろう。
 一体之は何であり、何の結果であるか?
 私は義侠心から彼の女を愛したと思われている。そしてあの職工は唯淋しさから、或いは戯れに類する嫉妬から彼の女を愛したと思われている。そしてその内何方が正しいか? いや、正しくなくとも、何方が正しさに近いか? 分りはしない。唯ミサ子の心は何かしら独自のそして特殊の判断を下していた。いや
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