については、何の證拠もないと云うのですか?」
「少しはあるんです。妹さんは時々独り言を云う癖があるでしょう。或る時、洗濯物を抱えた儘で『貴方、貴方、貴方!』と口走っていたんです。誰だって、自分の事を貴方なんて云いはしませんからね。」
「それは證拠とは云えませんね。」と私は薬剤師を少し疑った。けれども、私は妹が院長の息子のために貞操を傷けられ、その上、詐欺的犯罪の犠牲となって、獄舎へ迄も引かれたのだと云う漠然とした観念を植えつけられずにはいなかった。
怨恨と憤怒とは再び私の心を領した。薬剤師と心を組んで、色々の噂や、息子の様子を探れば探る程、疑いは真実と代って行った。
残忍な内謀は日に日に私の心の中で育って行った。読者は忘れたであろうか? 私は一時自暴自棄と依怙地とから、犬殺しにさえ進んでなった、暗怪な青年である。
私は殺人を夢み、又妄想し、遂に意図し、企画し初めたのである。刃物は用意され、逃げる道が地図の上に赤い線で記された。
ある人は私の愚を詰って云うであろう。何故お前は真の犯人たる院長の息子を其の筋へ訴えないのか? と。
けれど、それは私の眼から見るなら無駄事としか思われない。起訴した処で、我々が敗けるのは初めから判明しているのではないか。
息子は妹を強いて姦したと云うのではない。又放火を教唆したとしても、その證拠は上っていない。それに裁判官達にも名誉と云うものが必要である。そして之は真理を葬ることに慣れた一地方に起った事である。間違った判決をその儘で通すのが、彼等に取って最も利益であるのは判り過ぎているではないか。それが彼等の妻子を安全に暮させる最上の方法である。それが彼等の鬚に滋養をつけ、一層上方へ伸び上げるようにする最適の方法なのである。裁判長の鬚は後ろからでも見える――その鬚こそ此の地方での最も誇る可き名物だったのだ。裁判長は神経衰弱に落ちて、カルシュームを含むカルピスと精力素と云う薬と、ヘモグロピンとヴィタモーゲンとを服用し、その上にビフステキを食べるのだが、其れが皆鬚になって了うのである。
朝鮮人を憐む支那人
何うして忘れ得よう。そして何を忘れようと云うのであるか。いや、反対に、私は記憶のあらゆる粒を一時に思い浮べるのだ。
私は歯がみをし、骨が響きを発する程に腕を振り、又眼前の物体は何に限らず蹴返した。あの沈着で痩薄な院長、
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