床の上で自然に死んで呉れたのであろうか? おお私は此の上もなく惨めな人間ではないか。実際は床の上で胃癌の為めに死んだB市長の事を、公園で刺客にやられたのだと吹聴したのは確かに此の私であった。その時は自分が嘘を吐いているなどと云う一種の悲しく又喜ばしい意識を失っては居なかった。おおあのイライラとした口惜しいような歯痒いような然も体をじっとしてはいられないような虚言の快楽、私は確かにそれを享楽していたのである。所が今度は何うであったろう。母とその情夫とに向けられた疑惑の根は決して虚構の快楽から生え上っては居なかった。困った、と私は自分の額を打っては何度かたじろいだことであろう。之は殺人事件を仮想しては楽しむ私の悪癖が一層憎悪して来た結果に他ならないと云う決断を私は何んなにか要求したか? 然も要求したにとどまった。悲しい事に疑念は子を産み、蔓を伸ばすのを止めなかった。
その頃、私は又奇怪な話しに遭遇した。
「お前は知っているかね? スピノザは肺病で死んだことになっているが、実はアムステルダムの一医師に殺されたんだよ、デクインシーと云う人が其れを検べて、自分の著書へ公然と発表しているんだから、間違いはないのさ。それからカント……あの古手の大カントも例の散歩の道で殺されかけたのだぜ。刺客はジット大哲人の痩せた猫背をうかがったのだ。けれどその時ふと刺客は思いついたんだ。之はいけない。あの老人は、沢山の罪を背負っている。若し自分が殺すと、真逆様に地獄へ墜ちて行って了う。之はいけない。それで刺客はドンドン駈け出して了ったのだ。そして老哲人の身代りに、可愛い幼子をふんずらまえたのだ……」
「うむそれで何うした?」と私は暗い好奇心を以て前へ乗り出し、話し手の手首をしびれよとばかりに握りしめた。話し手は一寸たじろいた。
「それで……之から育つ果実のように生き生きとしていて可愛い幼な子の肉をぶちやぶり、小さい霊を天へ送ったんだ。刺客はもう感奮して声を立てて泣いたんだ。之であの霊は天国へ行けるって云ってね。」
「その刺客の心理が不明瞭だ、」と私は云った。
「不明瞭にきまっている。是非不明瞭でなくてはならないんだ」話し手は立ち去って行った。
私の疑念は憎悪して病気になって行きそうであった。私は話し手のあとを秘かに追って行った。彼は夜の細い道を右へ左へ折れた。
「おお、お前未だ私を追跡するか
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