ないのか? あり過ぎる。それで困っているのである。私はもっと前の、もっと古い記憶から辿り直さねばいけないのだ。いや、説明の出来ない沢山の事が、語るのがつらい色々の事が、何うしてそんなに私の心の中に蠢動するのであろう。
 事の初めは何であったか? 私の母とミサ子との気持ちが合わなかったのを先ず思い出せ。それである。原因と名附けられるのは確かにそれであろうか? いや、之は大きい原因ではない。けれど斯んな工合であった――即ち、ミサ子と私の母とは大きい喧嘩をしたのだ。いや、そうではない。その事にも既に原因があった。私よ、驚くな。皆云って了う。私はミサ子と結婚する以前に、彼の女を妻のようにもてなした覚えは確かにない。断言する。それから彼の女が櫛を盗んだ時、彼の女は我々の知らない特別の週間の中に居たのである。だのに、何うしたのか。それを云うのがつらいのである。彼の女は私と四ケ月同棲した時、妊娠六ケ月位になっていたではないか! 之が潔癖な昔堅気な、そして士族の娘であった私の母を此の上もなく不快にし、喧嘩の素を造ったのである。元より、私は三つ許した次手に、四つでも五つでもミサ子の過失を許そうと心掛けていたのであるが、母はもう到頭我慢がし切れなくなり、自分から自分に敗けて怒りを発して了ったのである。
「お前……」と母は私を蔭へ呼んで尋ねた、「お前、結婚前にも、その覚えがあるのですか?」辛い質問! そして痛い思い出が此処から初まる!
 ああ、私は何と云う機智と奇才のない鈍物であったろう。「いいえ、」と云う正直な答えより他には、一寸好い思い附きもなかったのである。私が悪い、もうそれに相違ない。ミサ子を許そうと心掛けているなら、何故、あらゆる点に心を細かく働かして、許すための計らいをするように努力出来ないのか? 私は自分を叱り、自分を噛み破っているのだ。
 俄然、ミサ子は家出して了った。それも夜中にである。勿論彼の女は私の室に臥なかった。私は十二時頃一度目覚めて、泣いている彼の女を台所迄呼びに行った。すると驚いた事に、彼の女はそこの板の間に自分丈の布団を布いて臥ていたのである。顔は蒼白になり、息づかいが荒く、何か強い苦痛を耐えているように、額へ水を浴びたと思われる程汗をかいているのであった。おお私はもう此の先を話せない。
「畳の方へお行き、私は何とも思ってはいないよ。母の事は許して呉れてね
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