、天に向って悲愁と痛恨の叫びを投げた。ああ眼球を繰り抜いて投げだしても間に合わないではないか。
「微笑! 許して呉れ。ミサ子の霊よ。ミサ子の口元よ。許して呉れ。まざまざと眼に見えて来る。私の脳髄に彫附けられたその微笑! 一番優しいものの恐ろしさ!」
 けれども声は甲斐なく消え、風は凪ぎ、そして、あの闇、始終その中で私が悪事を働いたあの闇が、私の火傷したように脹れた肉体と精神の上へ蔽いかぶさるのであった。それは実に並ならぬ、世の常ならぬ暗さであった。

   (退職教員の付記)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]

 哀れなセルロイド職工の手記は此処で終って了っている。
 けれど私は何う説明したら好いのであろう――事件は複雑で、その上に私の心は鎮まって呉れない。自分丈にはスッカリと分っている事が、いざ説明し、弁明し、闡明しようとすると、皆漠然として了い、もう物語の端緒が見附からなくなる。私は長い時間かからねば話し尽せない事件を、まるで絵図のように一度に展開したいので、却って混乱へと落ちるのである。
 何故、ミサ子は死なねばならなかったのか? 之が一番初めの、そして一番六ケ敷い問題である。人が他人の心を悉く知る事の出来ない限り、此の問題に正確な解釈を下そうとするのが既に誤謬の初めではなかろうか?
 けれど、黙ってはいられないのだ。もうミサ子は死んでいる。彼の女の口の代りに、誰かが正当な弁明をしてやらねばならない。それは何より明かな事である。
 彼の女の死に場所は我々が王冠の森と呼ぶ木立のある断崖であった事を人々は記憶しているであろう。其処で今度は何故彼の女があんな不都合な場所を選んだかと問うて見ねばならない。実を云うと、私は未だ新しい悲愁に眼を蔽われていて、考える力、理性を適当に働かす力を恢復してはいないのだが、それでも、夢の中であった事を思い出すように仄かな幽かな――云わばまるで暗示のような解答を捕える事が出来る。
 彼の女に取って、あの断崖は懐かしい思い出の場所であり、恐ろしい罪を想起させる刑場でもあったらしい。そして、私は確かに二度迄も彼の女の口から洩れかかる懺悔の言葉によって、それを直覚していたのであった。それ丈は今斯うしていて、思い出し得る間違いのない記憶である。いや何たる忌わしい記憶であろう。
 それから何うしたか? 語る可きもっと重要な事は
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