うな奥深い眼で、青年の為す所を凝視していた。
青年は六つの指をそれ/″\の穴に当てがい、遂に決心して、笛の口を自分の唇へと接近せしめた。
「危い!」と、ラ氏は言った。そして立ち上りざま、青年の手からは笛を、机の上から花束を、一時に取り上げて、幾度も深くうなずいた。
六
ラ氏の心持ちが段々と穏かなものに変化して行った時、却って、彼れの身体が疲弊を増すのみとなったのは悲しむ可き事である。
退院の予定は全くくつがえされた。然《しか》も最早一銭の貯えをも彼れは持ち合していなかった。
院長はラ氏の経済状態を十分観察し、その上、もう余命が長くないらしいのを了解して、彼れを施療部へ移す事を承諾した。
若しこの世に、天国と地獄とを兼ね具えたものがありとすれば、それは確かに施療室である。
何故なら、其処では救助と残虐とが、日を同じゅうして行われるからである。
死と向い合って坐する幾日を、ラ氏はこの苦しい施療室で過し、曽《かっ》て住みなれた三等室に憧憬の心を寄せ通した。
彼れは金銭を全部失った日から、又急激に痩せ初めた。この事は人と物質との微妙な関係を我れ我れへ承認せしめるに十分だった。
斯うして彼れは再び血を吐く機会に行き会った。彼れはそれを「生命の支払い期」と戯れて呼んだ。
ある時の如きは、止め度なく口から血が垂れるにも拘らず、彼れは態と身体の安静を破って、烈しく起き上り、声を立てて、天へ祈りを上げ初めた。
最早、医師の誰もが、ラ氏のこんな行為を制止しようとは試みなかった。何故なら此処は施療部である。若し施療室というものに頭脳があるなら、それはきっと斯ういう苛酷な思想を持ったに相違あるまい――
「地上に於いて、実用に適さぬ生命は早く天へ送られる方が好いのである。」
私は恐怖の眼で友人ラオチャンドを見やった。痩せる丈痩せて、昔日の面影もない彼れはベッドに坐して、体を前後にゆすっていた。彼れの眼尻には血の飛沫が一点、アミーバの拡大図のような形ちで付着していた。板の間の上へ置かれた、古い洗面器には、彼れの吐いた血が鎮まり返って溜っていた。
と、其処へ、何を慌ててか、一人の助手が肘《ひじ》を縮めながら、駆け込んで来た。彼れはいきなり板の間の洗面器へ、粗忽な足の先を突きあてた。血は丁度嘗て人間の体内に居た時の如く、波打った。丸い波紋が次々と表れるのを、ラ氏は侮辱されたような顔付きで眺め入ったが、軈《やが》て、
「私の血が再び動き出した……」と、悲しそうに私の方を振り向いて呟いた。
「それより、静かに臥さねば……」と、私も亦落ちつかぬ心で彼れへ言った。
「私の国では、寝た儘で祈るという風習はない。」と、彼れが頑固に返答した。そして何事かをパーリ語で唱えては、体を前後に揺するのであった。
七
再び美しい月の夜が来た。
私は以前に一度経験したと全然同じ情景を、月光の下に見出して少からず驚かされた――ラ氏が唯だ一人で、物干し台の鉄の梯子をよじ登ろうとしていたのである。私は長い廊下を急いで、彼れの跡を追って行った。そして、広く冷たい天空の直下で、漸《ようや》く彼れと向き合う事が出来た。
「骸骨《がいこつ》が斯《こ》んなに歩きます。」彼れは弁解するというより、寧ろ、陳謝する如く、そう私へ囁《さゝや》いた。私はその一言を聴くと、最早|何《ど》んな難詰の言葉を見出す力をも失った。そして、この夜こそ、恐らく、彼れが大きな天空を眺めて楽しむ最後の時となるだろうという事を、独り黯然《あんぜん》と予覚するのであった。
この美しい月光の宵《よい》、私と彼れとは短い時間の内で、極めて多くを語り合った。
色々な会話の中で、殊に私の注意を惹《ひ》いた部分は次の三つに他ならなかった。
ラオチャンドは言った――
「私の手に手袋がはまっている。私が手を動かすと、手袋も斯んな風に動く。然し、(此処でラ氏は手袋をぬいだ。)手から引き離すと、労《つか》れたようにうなだれて、もう決して動かない。不思議ではないか。」
又、ラ氏は物語った――
「私の叔父に書物を広く読んだ、優れた人があった。彼れは矢張り私と同じ疾患で仆《たお》れたが、病臥の日の中で、私へ斯ういう事を教えて呉れた。
ラオチャンド、分るか。月が虧《か》けている時、それは本統に半分を失って了ったように見える。けれど、実は何者をも失ってはいないのだ。私が不意に居なくなるとしても、それは月の部分が虧けるようなもので、実は何も変った事は起っていないのだ。」
この言葉につれて、二人は思わず頭上の天を眺めやった。私は深い困惑に落ちて、この異国人の旅愁を少しでも和らげてやりたいと願った。然し、ラ氏は最早全く感情的なものから遠ざかって、平和に微笑んだ。
更に彼れは斯う呟《つぶや》いた
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