鞦韆考
原勝郎

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(例)まち/\
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 鞦韆は漢字で綴ればこそむつかしくなるが、遊戯としては極めて簡單で、何人でもたやすく思ひつきさうな種類のものである。されば其源流を究めるなどは嗚呼の沙汰に近いかも知れない。然るに無造作な此技が、想像さるゝよりも少數の發明者しか持たなかつたと見えて、東洋に於ても西洋に在りても、國から國へと移り行つた跡が歴然と認められる。加之、時代によりての變遷もある。因りて今偶然の機會から動かされた貧弱な骨董心の赴くに任せて、其分布の徑路を辿つて見ることにした。
 希臘とてもあらゆる文明の根原ではない。從ひて鞦韆だとて希臘人の發明だと斷言の出來ぬことは勿論である。然し古代希臘に既に鞦韆のあつたことは慥かで、其根源に就いての話も亦希臘神話の中にある。其神話には二樣の傳へがあつて一致しないが、兩者共にイカリオスの女エリゴーネが縊死したのを以て濫觴とし、其祟りからアテンに疫病が流行したので、アテン人が恐れをなし、其靈を慰むる爲めにアイオラの祭を始め、大に鞦韆をやることにしたといふ點に於ては一致して居るけれど、エリゴーネの縊死の事情に至りては説く所まち/\である。甲の説に從へばエリゴーネの父イカリオスがヂオニソス即ちバックスの神から葡萄酒を釀す傳授を受け、諸方の人々に廣く之れを教習し且つ味はせたが、美酒に醉ひ過ごした一牧童は、己れイカリオスに毒せられたものと早合點し、憤怒のあまりイカリオスを殺した。そこでイカリオスの女エリゴーネ[#「エリゴーネ」は底本では「エリーゴネ」]はモエラといふ犬を伴ひ、父の死骸の在り所を探し當て、遂に墓畔の樹で縊死したといふことになる。即此説に從へばアイオラの祭は、父を慕ひて自殺したエリゴーネを慰め、併せて其父のイカリオスの非命に死した靈をも和めることになるが、乙の説によるとイカリオスを殺したのは餘人ならず其女エリゴーネで、彼女は其親殺しの罪を悔いて縊死したのだ。故に其眞似をして鞦韆をやれば、鞦韆には罪を償ひ攘ひ清める力があるから、之によりてイカリオスの靈を慰め得ると云ふことになる。されば乙説を採ると、惡病の流行したのはイカリオスの祟りで、甲説からすれば父のみならず娘のエリゴーネやモエラ犬の祟にもなる譯だ。而して其イカリオスは、葡萄の美酒を釀もすことを教へて貰つたのでもわかる如く、ヂオニソスの鍾愛者であるから、其非業の死を遂げたについてはヂオニソスの怒り一方ならぬは勿論のことで、アイオラの祭をやれば、同時にヂオニソス即ちバックスの神をも喜ばす所以になると云ふに至つては、甲乙兩説共に其歸を一にして居る。
 然らばアイオラの祭とはどんなものか。此祭は或はアリチデスとも稱し、首縊になぞらへて樹に繩をかけ鞦韆をやるのであるが、縊死したエリゴーネが處女であつたといふ點からして、專ら妙齡の婦女子が此技をやる習であつた。而して神話の趣旨には拘泥せず、此祭はバックスの爲めの祭となり、又葡萄酒の釀造に縁あるといふ所からして、葡萄の收穫即ち秋に之を行ふことゝなり、南歐の季節人に最も適する時分の享樂を主とする年中行事の一として、婦女子野外の興を添ふる技となりおふせたのである。其大にもてはやされたものであることは今日尚存する※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ースの畫に屡見えるに徴しても明かで、それ等の繪によれば、當時の鞦韆は二本の繩で腰掛け樣のものをつるし、之に腰を掛ける女は最初他人をして後から推さしたものゝ如くである。又神話には頓著せず、罪を攘ふとか悔い悛めるとか云ふ意味も籠もらせずして、却へりて歡樂をつくす方法としてもてはやされたことは、鞦韆の※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ース畫には興に耽ける婦女の側に或はエロス或はシレン等を添へ畫くを例として居るのでも、之を知ることを得べく、極めてなまめかしい種類の遊戯であつたのである。
 此遊戯はバックス崇拜と共に、希臘から西漸して羅馬に入り、オスキルムと云ふ名稱で盛に行はれた。それからして先きの傳播の徑路は詳に知るべきよしもないが、十七世紀頃には佛蘭西其他の諸國にもてはやされ始めて居る。蓋しそれは羅馬の流れを汲んだものと認めて差支はなからう。佛蘭西では此遊戯をバランソアールと云ひ、其最も流行したのは十八世紀で、當時は之を畫題として美人を描く者も多く、畫家フラゴナールの如きは此種の作品に富んで居る。愛姫をして態々鞦韆に倚らしめ、彼を招きて寫生せしめた風流子もあるとの事だ。佛蘭西から西班牙に入ればパランソアールがパランセアールに轉じ、葡萄牙ではバランソとなるとは云ふものゝ鞦韆が歐諸國中南部にのみ限りて行はるゝと云ふのではないことは勿論である。
 希臘から發して西した傳播はあらまし右でとゞめて置いて、さて其東方の流布はどうであつたかといふに、ヂオニソスの崇拜はもとフリギアから起つたとも云ふからには、鞦韆も或は希臘より先きにフリギアに行はれたかも知れぬが、アレキサンデル大王の遠征と共に、此ヂオニソスの崇拜も埃及、シリア、遠くは印度まで及んだとの事であるによつて想像すれば、此崇拜と密接の關係を有する鞦韆の遊戯も、或はそれと共に印度まで傳はつただらうとも考へられぬではない。然しながらそれすら定かではないのであるからして、ましてそれよりも更に東にある諸國に行はれた鞦韆の源流を一々希臘フリギアの昔まで遡らしめることは、これ實に至難であつて、武藏野の逃げ水の行方を追ふと一般なことかも知れない。唯茲に讀者の注意を促したいことは、支那に於ける鞦韆は、支那人ですらも之を認めて外來の技となして居ることである。
 鞦韆が何時の頃からして支那に行はれたものか、今之を詳にし難いが、最も早く文献に見えたのは宗懍の荊楚歳時記以外には隋書の藝文志に載せてある古今藝術圖を以て始めとするらしい。唐人の引用して居るのは多くはそれだ。但し此書今は湮滅し、引用文は諸家區々であるので、古今藝術國にあつたといふ説明の原文の、如何なるものであつたかを斷定すること容易でないが、藝文類聚や初學記や又は太平御覽、等に散見する引用文を比較すると、多分鞦韆北方山戎之戯、以習輕※[#「走+喬」、732−3]者とあつたらしい。即ち支那に生えぬきの遊戯ではなくして、北方の蠻俗の輸入されたものだと云ふ事になる。然しそれだけの説明書では、六朝時代に既に支那に行はれたことを示すのみで、其以前如何に早く輸入されたものかを語らない。そこで之を漢の武帝の時からとする説も生じた。此説の何人により唱へ始められたるかは分明でないが、唐の高無際の漢武常後庭鞦韆賦の序に考古之文苑、惟鞦韆賦未有作、況鞦韆者千秋也、漢武祈千秋之壽、故後宮多鞦韆之樂と見えるなどは最も古るきものであらうと思はれる。然しながら字典に鞦韆はもと秋千とも書きしもので、遊戯の名稱を音であらはしたに過ぎず、特に革に關係を有して居る譯ではないと云つてあるのは穩當で、此賦の序文にさも尤らしく鞦韆は即ち千秋だと書いてあるのは、如何にも牽強附會を極めたものであるといふことは何人も首肯する所であらう。千秋の壽を祈りたる者亦必しも漢武に限ると云ふのでもあるまい。是に由りて之を觀るに、別に然るべき證據が提出さるれば格別、さもなきに於ては、鞦韆の根原を漢武に歸する説は成り立ち難い。天寳遺事に宮中寒食競立韆鞦、令宮嬪笑爲宴樂、明皇呼爲半仙戯とあるによれば、唐代には鞦韆を半仙戯とよびならした者とも見えるのみならず、韆の音は僊にも通ずる。恐らくは漢武の熱心に仙を求めたのと北方の遠征で有名なのとに附會して、鞦韆の濫觴茲に在りとしたものであらう。武帝説よりも更に甚しいのは鞦韆の起原を齊の桓公の山戎征伐に遡らせやうとする説で、古今藝術圖の北方山戎之戯とあるに原づき、山戎との交渉の始まつた時、即ち鞦韆は傳來したと斷じやうとするものである。山戎固有の遊戯であるか否かをも明にせず、又何時の頃から山戎の間に行はれたかをも吟味せずして唯山戎との交渉をのみ便りに論をなすのは詮のないことだ。春秋時代に支那へ鞦韆が渡らなかつたと云ふ反證はないけれど、其後久しく文献の徴すべきものがないことを考へると、さまでに古るい起こりでなささうに思はれる。けれども荊楚歳時記に三月寒食に行ふ遊戯の中に、鞦韆といふ名目があるから、假りに此宗[#「宗」は底本では「宋」]懍なる著者の年代が稱する如くに晋にはあらずして、之を梁の元帝頃の人だとする四庫全書提要の説に從ふとするも梁代には既に荊楚地方に行はれて居つたことを明かにし得る。而して北方山戎の戯が荊楚地方に行はれ、而かも年中行事の一となる迄には、相當の年代を經ることを要することをも併せ考ふる時は、鞦韆の輸入は梁よりも早かるべく、齊か宋か或は晋かも知れぬ。して見れば同じく北方蠻人との交渉から始まり、齊の桓公や漢武などではなくとも、五胡七國の頃に既に渡つたものと見るのが妥當だと云ふことになる。
 支那の鞦韆が晋か六朝の初め頃からのものであるとしても、其時代の文献では其如何なるものなるかを知ることが出來ぬ。之を詳にし得るのは唐以後のものについてゞある。唐の鞦韆の樣式には樹枝を利用するものと特に柱をたてるものとの二種あつたらしく、其うちで樹枝を利用してそれに繩をかけ架をつるす方は、本來のやり方であらう。王建の鞦韆詞には嫋嫋横枝高百尺とある。韋莊の※[#「麗+おおざと」、第3水準1−92−85]州遇寒食城外醉吟に好是隔簾花影動、女郎撩亂送鞦韆とあるのも、恐らくは鞦韆の繩を花さける枝にかけた光景を詠じたものであらう。もとこれ北人野外の樂であるとすれば、特に其爲めに柱を設くる事なく、天然の樹枝を其儘に利用して之に繩をさげるのは當然のことで、從て之を移して家庭でやる場合にも、それに則ると云ふことはあり得る筈だ。唐代のみならずそれより以後の時代に在りても、必しも柱を立てると限らなかつたことは、元以後の詩人の鞦韆詞によりても略ぼ察せられるが、然し野外だとて決して柱を立てなかつたと云ふのではない。況や之を院落玉砌に移し行ふに至りては、天然の樹枝を利用するよりも、特に柱を設ける方が却へりて普通であるべきで而かも風流を競ふ場合には、柱に繍を螺状に卷きつけ、繩も色どりたる絹を以てすることもあつた。周復俊の鞦韆咏には繍柱※[#「(火+火)/冖/糸」、第3水準1−90−16]紆會有縁と云ひ王建の詞には長長絲繩紫復碧とある。或はまた柱を塗り又は畫いたらしくもありて、明の蔡羽が鞦韆怨に丹楯朱干傍花砌とうたひ、同じく王問は金飾丹題綵作繩と吟じて居る。宋の楊萬里の上巳[#「巳」は底本では「已」]と題する詩の轉結には、鞦韆日暮人歸盡、只有東風弄彩旗とあるが、これはもとより野外の鞦韆をさしたものであらうけれど、家庭のものにも柱頭に彩旗を掲げぬとは限らず、且つ宋代のみならず、或は其以前にも旗を飜へらしたかも知れない。又同じ蔡羽の詩中に青絲流蘇兩頭繋といふ句があるが、これ或は鞦韆の踏臺になつて居る横木即ち架に、總を垂れて飾としたのをよんだのではあるまいか。
 主として鞦韆の枝を弄んだ者は男子ではない。此點に於て西洋と似て居る。明の王問の鞦韆行に、此戯曾看北地多、三三五五聚村娥とある。此北地は江北を斥したので、所謂北方山戎のことではないが模倣した支那の側で女に限つて居るのによりて考へると、以習輕※[#「走+喬」、736−5]とは云ふものゝ、北方山戎に於ても或は女のみの遊戯であつたかも知れない。又鞦韆をやる女の年輩は、王建が少年兒女重鞦韆と云へるを見ると、若い者を主としたやうであるが、若いと云つても今我邦で云ふ小學兒童といふ年頃よりは、いま少し長じた程度のもので、王問の詩には幼女十五纔出閨、擧歩嬌羞花下迷、自矜節柔絶輕※[#「走+喬」、7
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