下向の目的が那邊にあつたにせよ、上國の文明が、彼等の力によつて、徐々と奧州に輸入されたことは、蓋し疑を容れざることであらう。
 それと逆しまに、奧州の方から上方に出かけた人々に就いては、姓名の知れて居る者が少いが、しかし其實は多數あつたに違ひない。久野山縁起には、平泉館師忠の子僧源清の事が見える。恐らくは久野山のみならず、僧となつて京洛に住した者もあつたらう。又清衡は志を叡山に運び、其千僧供の爲めに七百町歩の保を立て、其後此莊園が次第に擴張されたといふからには、其等の用向で上る人も勿論あつたらう。貢賦に關しては頼長の台記で其一端が窺はれる通りであつたらうし、中尊寺建立の爲めには、殊に往返を繁げからしめたであらう。續世繼(みかさの松)に見ゆる、基衡が其寺の爲めに仁和寺に依頼して勅額を乞ひ下したとの事、既に以て秀衡以前に京都式文物の摸倣に就いて、少からぬ努力のあつたことを證するのであるが、秀衡の時に至つては、單に京都のみでなく、東大寺造立供養記によると、奈良にも慇懃を運んだ樣であるし、又阿闍梨定兼の承安三年の表白文によると、高野山にも歸依して四ヶ年の衣糧を運んだとある。此等の用向を辨ずる爲
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