、石卷の齋藤氏文書、盛岡新渡戸仙岳氏、紫波郡宮崎氏の所藏文書等である。此等の文書中時代の最も早いのは、承久四年三月十五日、津輕平賀郷に關したもので、之によれば、曾我五郎次郎の父小五郎の時から、即ち鎌倉時代の始めから之を領して居ることがわかる。其他今の岩手縣廳の所在地盛岡の一區劃は、仁王郷といふ名で鎌倉時代から知られ、駿河大石寺の所藏文書の中に、後藤佐渡三郎太郎基泰といふ人が、建武元年頃に之を領して居つた事が見える。それから少しく南になると、今の稗貫郡八幡村であらうと思はれるのが、結城小峯文書に八幡庄として載せてある。此の如く北は津輕のはて迄も、鎌倉の政令に服して居つたのであるからして、三衡以來の遺跡である此中尊寺の保存に就ても、當時決して注意を懈らなかつたもので、其詳細は中尊寺文書にも見えるが、其外にそれに關する史料で、一寸思ひがけなき場所に在るものを擧ぐれば、京都下京區住心院の文書中、文永元年十月の鎌倉將軍宗尊親王の下知状に當時の執權が連署したものである。
 政治の勢力による開發と相伴ひて奧州の文明を進め導いたのは宗教の勢力である。此時代に出來た宗派といへば、いづれも當時新に政權の中
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