。要するに以前よりは一層自由に弘宣波及するやうになつたのである。而して斯く成り來つたのは一般氣運の漸移によること勿論ではあるが、政權が兵馬の權に伴つて、其の中心を京都よりも奧州に近い鎌倉に移したこと、與りて大に力がある。王朝の地方政治も、藤原氏の莊園制度と、共に未だ深い印象を與へて居らなかつた其奧州の地に、守護地頭の制度は上方に踵いて布かれるやうになつた。千葉葛西等の、武總に蟠居したる有名な平氏、伊豆相模の豪族たる工藤曾我等の諸氏、野州の宇都宮藤原氏、さては甲斐源氏の諸族等、所謂關東豪族の歴々が多く陸奧に采邑を得るに至つた。中には關東と奧州と兩方で地頭を兼ねたものもある。紫波郡の國道筋に近く、唯今も走湯神社といふのが殘つて居るが、これ或は其附近の地が伊豆國出身の某武人の采邑になつた事がある一證ではあるまいか。總じて東北地方には、歴史の研究に必要な記録も文書も共に殘存する所のもの至て稀で、北に進むに從ひて愈々少く、藤原時代は勿論鎌倉時代の事をも明かにし難く、岩手縣以北に關したもので、今日の所稍※[#二の字点、1−2−22]まとまつて居るといふべきは、結城文書、宇都宮文書、遠野の南部家文書
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