七ヶ國の中に野州は見えず。さすれば奧州人は野州を通過して吉崎に赴きしものと考へられず。その上に前述の事項を併せ考ふるときは、奧州の信者の日本海廻りにて、吉崎に參詣したらむこと、強ちに有り得がたきことゝ斷ずべからず。扨て此日本海廻りにて北海道、それより更に京都に至るべき道筋は、新井白石の奧羽海運記にもある如くに、越前敦賀に著津の後、山中を駄運して近江の鹽津に出で、それから舟にて琵琶湖を横ぎり、大津を經て京都に達したものであらう。越前坂井郡三國の港は、今こそあまり振はない場所であるけれど、昔は北陸の要津であるが、此港に、久末といふ舊家が今でも存して居る。其久末家で先年内藤文學博士が採訪された文書によると、同家の祖先久末久五郎といふ人が、元和元年大阪夏陣の時、南部利直の爲めに、其武具雜品を手船にて輸送し、又翌年南部領内大凶作の際、同じく手船を以て米を輸送した度々の功により、其手船を以て船役なしに南部領田名部浦に入港する特許を與へられ、其特許状は家老連署を以て幾回も書き改められて右久五郎の代々の子孫に交附されてあることが分つた。此事なども日本海海運の好史料であると思はれる。
當時の船舶の構造から考へると太平洋沿岸の航海すら既に頗る危險であるから、まして風浪荒き日本海廻りに至つては、白石の所謂備さに難辛を極め、勞費最多くして遭利廣からざるものであつたので、彼の定西法師傳に在る天正頃琉球の日本町に奧州の者もあつたとの記事に至りては、其漂流人でない限り、少し受取りにくい話であるとしても、足利時代の奧州の海運は陸上交通と相俟ちて其開發を助けたもので、決して輕視すべからざるものと思ふ。
海陸の交通の發達に伴つて、邊鄙の奧州も段々に開けて來たことは、上述の如くであるが、然しながら奧州はやはり依然として文明進歩の遲々たる所で、足利時代を終つても、まだ/\上國と比肩する迄には行かなかつた。其の例を擧げれば數限りもないが前に一寸述べた安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。また鐵砲使用の年代に徴して見ても當時の奧州の文明が、どれ丈け上國よりも遲くれて居つたかゞ分かる。天文十二年に種子島に渡つたといふ鐵砲は、永禄の末にはまだ東國に少く、奧羽永慶軍記に
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