記によると、盛重時代に其城下たる會津黒川、即今の若松の大町柳の下といふ所に風呂屋があつて、蘆名家の侍共が、毎日それに出入りする故、伊達政宗からして、太寄金助といふ間諜を、此の風呂屋につけ置いて蘆名家の内情を探らしたとある。今こそ錢湯が何處にもあつて、珍らしいものではないが、江戸ですら徳川幕府開設の當初は、風呂屋といふものが、珍らしかつた。それが天正頃に會津に在つたのであるから、當時黒川即若松の、決してありふれた田舍町でなかつたことを知るに足るのである。されば上方からの素浪人のみならず小笠原長時の如き名將も、漂泊の末此所に來り、遂に此地に歿したが、其の長時の會津滯在中に星野味庵に授けたのが、即味庵流、畑奧實に授けたのが即畑流と稱し、共に小笠原一流の弓馬の古實である。文藝も茲に一種の發達をなしたものゝ如く、當時廣く日本にもてはやされた平家の如きも、爰で相應に流行したものと見え蒲生氏郷の從妹で南部利直の室となつた人の、嫁入の際に持參した道具の中には、他に類の少い平家の語り本が一部あり、其奧書には、永禄年中に會津黒川の諏訪某が所持して居つた旨記されてある。又相當に文化の中樞となつて居つたればこそ、耶蘇教もいち早く此方に入つたので、其事は日本西教史にも記されてあるのみならず、上述の平家物語と同じ持參道具の中に、念入りな宗教畫を張つた屏風のあるのでも證據立てられる。
足利時代に奧州地方が右の如き發達をなし得たのは、陸上交通の發達を前提としなければ、想像の出來難いことであるが、しかし各地方とも秩序の定まらなかつた當時のことなれば陸路の外に、海上の交通をも併せ考へなければ、十分な説明が出來ぬ。然らば此陸運は[#「陸運」はママ]どうであつたかと云ふに、彼の北畠顯信が義良親王を奉じて、伊勢から海路陸奧に赴かむとした事によつても、鎌倉末足利の初に既に斯かる航路の開かれて居つたことが分るし、又日本海廻りの航路に就いては、永享文安の頃、奧州十三湊の豪族安倍康季が、後花園院の勅命によつて、若州小濱の羽賀寺を再建したといふ、羽賀寺縁起の記事、若州の武田氏が北海道に渡つたとの傳説等によりて、鎌倉以來依然として、絶えずあることを知る事が出來る。蓮如上人御文章の第一帖に、上人が文明四年吉崎に坊舍を建て、暫し之を根據地とせし際の記事あり。其中に出羽奧州等七ヶ國の一向門徒此吉崎へ集まり參詣せしとあるが、
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