はり其以前と同樣に、風馬牛互に沒交渉と云つて可なる關係に在つたことを示すものと認むべきである。而して王朝文明は奧州よりも出羽の方に早く、且つ深く影響したに反し、鎌倉時代の文化は出羽よりも寧ろ奧州の方に多く感化を與へたことが、これまた此布教の歴史からしても推測され得るのである。
さりながら、斯る諸の事情が共に働いて奧州の文明を向上せしめたとは云ふものゝ、鎌倉時代に於ける奧州は、要するに大した開け方をなし了はせたとは見えない。馬は既に名産の一つになつて居り、閉伊郡大澤牧、糖部郡七戸牧、同宇曾利郷中濱御牧等は、牧場として其名上方にも聞えた事であるが、さて馬の外に名産として算ふに足る程のものがあつたとも見えぬ。蝦夷は此時代を終るまで集團をなして陸奧に居住し、安東家の差圖によつて屡※[#二の字点、1−2−22]叛亂を企て、それが爲め東北地方に兼ねてより關係のあつた關東の豪族即ち工藤右衞門祐貞、宇都宮五郎高貞、山田尾張權守高知等が、嘉暦年間に相踵いで出征を命ぜられたことが、北條九代記に出て居る。而かも此征伐は蝦夷の殄滅によつて落著したのではなく、和談を以て結末をつけて歸參したとあるからには、蝦夷は其儘に居殘つたに相違ない。藤原氏は武家の爲めに政權を失つたが其武家殊に源氏が勢力を養つたのは奧州征伐によつてゞある。然るに其源氏の開いた鎌倉幕府も、其亡滅のきつかけは、安東征伐、手短かに云へば奧州の蝦夷を征伐したが爲めといふ。して見れば數世紀に亘つて日本の爲政者を惱ました問題は、實に此奧州の始末方の如何であつた。されば兩統對立の時代になつてから、南朝が主として此奧州に於て官軍を募る事を力め、中尊寺には殊に關係の深い彼有名な北畠顯家卿を、陸奧守として派遣したのも、亦決して偶然ではないのである。此顯家卿については舞御覽記と云ふものに元徳三年(元弘元年)其宰相中將たりし頃蘭陵王を舞しときの樣を叙して「夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて、えならぬ夕ばへ心にくきに、陵王のかゞやき出たるけしきいとおもしろくかたりつたふるばかりにて」と云ひ更に「この陵王の宰相中將君は、この比世におしみきこえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし、形もいたげして、けなりげに見え給ふに此道にさへ達したまへる、ありがたき事なり」と云へり。斯樣なやんごとなき殿上人の奧州、蝦夷のまだ住んで居る其奧州に、國司として赴任するとい
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