心となつた鎌倉は勿論のこと、其周圍即ち東國地方の布教に盡力したのであるが、更に進んで出羽奧州にも及ぼした。それより以前天台眞言の二宗亦出羽奧州に入らなかつたといふではないが、新宗派の方が其活動振りに於て遙かに前二者にまさつて居る。先づ淨土宗に於ては、法然上人の高足なる證空上人の白河の關を踰える時詠んだ歌といふがあるから、同上人も奧州に入つたのであらうし、法然上人の弟子で有名な隆寛律師は奧州に配流になつたことがあり、其弟子實成房も亦奧州に活動した。其外法然門下の一人なる石垣の金光坊といふ僧の如きは、奧州の布教を其終生の事業として、遂に津輕で歿した(或は栗原郡で歿したとの説もある)禪宗に於ては榮西の弟子記外禪師、聖一國師(辨圓)の弟子無關禪師、歸化僧佛源禪師、空性禪師、佛智禪師等、いづれも奧州の布教に力め、道隆の風化も奧州の南邊には及んだらしい。面白い事には鎌倉時代奧州に於ける禪宗の布教的活動は、中山道や北陸道よりも時代の早いことである。次に眞宗に於ては最も有名なのが岩代東山に居を占めたる如信上人で、親鸞面授の弟子の一人と稱せられてある。それよりも更に深く北に入つたのは、紫波郡に遺跡を有する同じく親鸞の弟子の是信房であつて、本願寺第三世の覺知宗昭も、如信の遺跡なる東山迄は來たことがある(最須敬重繪詞)。日蓮宗では日蓮の直弟子日辨日目共に奧州に入り、日興に至つては、今の陸中迄深入りして布教したといふ傳説になつて居る。其他にも日蓮の孫弟子、曾孫弟子等の、奧州に布教したもの數多ある。時宗に至つては開祖の一遍上人が親ら奧州に巡錫したので、弘安三年には江刺郡に祖父河野通信の墳墓を訪ねたとあつて、唯今稗貫郡寺林にある光林寺といふ時宗の寺院は、即ち一遍上人の此巡錫を因縁として出來たとの傳説である。此の如く新に勃興した諸宗派の僧侶が、當時尚ほ麁野の境遇に在つた奧州の住民に與へるのに、宗教的の感化を以てしたのみならず、一般文化の進歩にも少からぬ貢獻をなしたであらうとは、蓋し何人も想像し得る所であるが、それと同時に歴史の研究者にとりて興味の深いことがある。即ち當時此等諸宗の僧侶で奧州に宣教した者は多く奧州にのみ其活動を限つて、出羽の方には入らず、出羽の方へ布教を志した人々は、越後からして入るのを普通とし、出羽奧州兩國を跨いで布教した者とては、其數甚少い。これは此兩國の、鎌倉時代に於ても、や
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