する。前回にもしばしば述べたとおり当時の公卿はしばしば遍歴をやったもので、その主なる動機は生活の困難から来たのであるが、実隆は台所向きずいぶん困難であって、殊に文明十九年ごろは「当年家務の儀毎事期に合わず」と日記に書いているほど難渋したのであったけれど、しかしながら遍歴をしなければ立ち行かぬほどの貧乏でもなかったのであるから、この種の旅行をばやらなかった。故に彼の旅行の範囲は極めて狭いものであった。けれどもさすがは実隆だけあって、その旅行の記事がなかなかおもしろい。奈良に最初行ったのが文明十年で、春三月花のまさに散らんとするころであった。落花を踏み朧月《おぼろづき》に乗じて所々を巡礼したが、春日《かすが》山の風景、三笠の杜《もり》の夜色、感慨に堪えざるものがあったといっている。二度目に出ている奈良旅行の記事は、実隆の長子で東大寺公兼僧正の弟子となり、西室公瑜と称した人が、京都から奈良に戻る時に同道した際のことで、明応五年閏二月中旬、花の早きは散り遅きは未だ開かぬころであった。宇治に近く三条西家の荘園があるので、奈良行きの時にはそこで中休をするの例であり、この時も南都からの迎馬に宇治で乗
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