において演ぜられ、実隆がわざわざ見物に招かれたなども、一佳話として伝うる価値があろう。ただし実隆といえども能の作者としては不適材であったのか、この「狭衣」の曲のほかには「閔子蹇《びんしけん》」というのを作ったが、両曲ともに今は廃曲となっているとのことである。
文筆に関したこと以外で実隆の干与《かんよ》した職務といえば、御料所たる荘園の未進年貢の催促、勅額勅願所に関する出願の取次等もあった。神社仏閣等に関する取次は、当時の公卿の通有なことであって、その周旋料は彼らにとりて財源の一つであったのである。実隆のごときはむしろ稀にかかることに関係した方であるけれども、それでも日記の所々に散見しておって、中にも大内家の依頼した氷上山勅額勅願所のことにつき、斡旋した時などは、その礼として、大内政弘から、唐紗の浅黄文雲のもの一段、同じく無文白地のもの一段と、それに堆紅《たいく》の盆とをもらい、実隆にとりてはよほど珍しかったと見えて、浅黄紗の方はさっそく物尺で計ったらしく、二丈一尺七寸余あったと認めている。大内家との親しみはそれのみでなく、延徳元年実隆が権大納言になった時には、政弘から昇進の祝として太
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