時に改名したので、その二日後に侍従に任官した時にはもはや公世ではなく、公延であった。五歳で備中権介を兼ぬることになったが、その翌年父公保が六十三歳で薨じた。この公保は内大臣まで歴進したけれど、槐位に列することわずかに一か月余で辞し、その後五年、すなわち実隆が生れた康正元年に出家した。その後なお五年間在世であったとはいえ、親のすでに出家した後、しかして家督たる実隆がまだ元服せぬ前であるから、このころは三条西家にとりてはなはだ引き立たぬ時代というべきであるが、それに加えて公保の薨去となって後は、いよいよ沈みがちの日を送ることとなったのである。
 公延という二度目の名は文明元年すなわち彼の十五歳になるまで続いたが、元服と同時に官は右近衛権少将に進み、名は実隆と改まり、いくばくもなくして正五位下に叙せられ、翌年従四位下となった。このころからして禁裏にも出入し、一人前の公卿として働くこととなり、三条西家の人々もようやく愁眉を開くこととなったのに、好事には魔多くして、十八歳のとき母を喪《うしな》ったのである。これからしておよそ五か年の間に右近衛権中将、蔵人頭《くろうどのかみ》に進み、位は正四位に陞
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