任として太田垣与二なる者望んでこれに補せられたことが見えている。この庄からの収入をも、三条西家ではやはり青女どもの給分に宛てておったのであるが、これを受領するには直接ではなく、建仁寺の塔頭《たっちゅう》大昌院を経由した。故に滞りなく千疋納入になった時には、実隆大悦で、わざわざ大昌院まで出かけ一緡《いちびん》を礼に与えたくらいだ。明応五年に広岡入道道円という者をその代官職に補したところが、その年には恒例の千疋のほかに、補任料をも添えて大昌院経由で送って来たので、実隆はいよいよ喜んだ。享禄二年に土佐狩野の画家に扇十本を描かしめて、これを太田庄に遣わしたというのも多分かく都合のよい荘園であったからだろうと思われる。
 山城以西は上述のとおりであるが、以東の美濃・越前にも所領があった。越前の所領というは田野村にあるのであるが、その公用は千疋であったらしく、これも同じく滞納がちで、濃州の所領とともに文明十八年幕府に訴うるところがあったけれど、その効が見えず、ほとんど断念しておったのである。ところが明応元年になって宗祇の取次で千疋を送ってよこしたので、実隆はこれ「天の与えしところというべきものなり
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