。三栖の年貢米は日記大永七年十月二十八日の条に四斗を般舟院から受け取ったとあるが、これのみならばはなはだ僅少なものである。のみならずその四斗も実際三条家で桝にかけて見たら、三斗一升しかなかったと記してある。紀伊郡散在の所領は前述のとおりであるが、その北にして対岸なる葛野郡の東南隅にあるが、すなわち桂新免河島の所領であって、年貢は米であった。かつこの地もまた西園寺家と共同の所有であったらしい。
 次は綴喜郡の北端、淀川と木津川との落ち合いで、後の淀城の対岸なる美豆の御牧である。日記には略して単に御牧と書いてある方が多い。その代官に関しては、明応ごろに中村宮千世丸という名前が同五年三月の日記に見えておる。ほかに辻某という有力家もあったらしく、その甥弥次郎という者が文亀三年に始めて被官として来たことが見える。これあるいは前に掲げた森弥次郎かも知れぬ。この庄からしての収入は百疋の年貢と茶とである。茶は一袋一斤半ずつの懸茶二十四袋が例となってあった。淀の魚市の年貢、これもまた収入の一であったが、これに関してもまた西園寺家との間に紛争のあったことは、明応五年の日記にしばしば見える。一旦は訴訟になり
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