公の弟親長の妻が、はるばる鞍馬まで出向いた。翌文明三年尼公が執行作善の時には、実隆は叔父親長とともに出向き、親長は二泊して帰洛したとある。このころの実隆は主として母尼公とともに鞍馬の方に住居し、時々京都に下ったものらしく、文明三年の十二月下旬から出京し、己の第《やしき》と親長の第《やしき》とに、十余日|淹留《えんりゅう》、正月年頭の儀を了えて鞍馬に帰ったとある。しかるに母尼公は落髪後久しからずして、文明四年十月中旬に歿した。実隆の室勧修寺教秀の女が、三条西家へ輿入れして来た年月をば探し当てかねたが、長子公順の生れたのは、文明十六年すなわち実隆が三十歳の時で、その後三年にして次男公条が生れた。子としてはこのほかに女子一人あったが、これは二人の男子の姉であって、後に九条尚経に嫁し、植通の母となった従三位保子である。
しからばその召仕にはいかなる者どもがおったかというに、最古参者は父公保の時代永享十一年十八歳で三条西家へ奉公し、もって実隆の代に至るまで歴仕した右京大夫という侍女である。彼の武者小路の家で西の小屋に住しておった者すなわちそれで文明十五年ごろまでは、その母なる者も存生であったら
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