た例をしるしている。岩城家の息女も歌を持ち来たって合点を所望した。伊達の一族も、二百疋を土産として対面を求め、連歌小巻の合点を頼んだ。常陸からは、江戸蓮阿という者が上洛のついでをもってたびたび訪問した。下野の小山左京大夫政長は、大永八年に連歌付句合点のことを依頼に来た。この時は実隆も、年老いたればにや、あるいは思うところありてか、かかるものに合点することを停止した後であったので、これを辞したけれども、政長かたく懇望し、黄金一両を懐中から取り出し、是非とも頼むといって、両巻を預け置いて去り、続いて葉雪という者をもってさらに依頼に及んだ。よって実隆もやむことを得ず書いてやった。そのほかに上野の僧も来た。信濃の僧も来た。しかしてこれら坂東者の多くは、しかるべき紹介の手蔓を有するもののほか、坂東屋という商人の取次によったらしい。
 これら人々の来訪や音信によって得たる実隆の見聞というものは、ずいぶん広かったろうと想像されるが、その上に彼は、当時の人には異域同様に考えられた蝦夷《えぞ》ヶ島に関する知識をも有しておった。というのは、彼が蝦夷人と交際したのではなく、蝦夷ヶ島に渡った僧友松という者が上洛して彼を訪ねたからである。実隆は細川家の被官で、阿波と丹波とへ往来する斎藤彦三郎なる者と懇意であったが、最初友松は丹波の出生者たる関係で、この斎藤につれられて実隆を尋ねた。蝦夷ヶ島から戻ってのち実隆に謁したのは永正四年で、土産として青※[#「虫+夫」、第4水準2−87−36]半緡を携えたとある。談話の詳細は日記に見えないが、おそらく蝦夷ヶ島の奇談で時の移るを忘れたことであろう。
 実隆は文学者として禅僧等に比してはむしろ日本的趣味の人であった。さりながら漢籍をもかなりに渉猟せること前にも述べたごとくで、明人との交際もあった。ただし当時京洛の人士が目に触れた明人といえば、すなわち有名な陳外郎で、実隆の最も親しく交わったという明人も、この陳外郎にほかならぬ。しかしてその陳外郎なる者は、明人とはいえほとんど本邦人と同様で、連歌の会にまで出席したほどの日本通である。さればこの陳外郎と交際したからとて、これをもって外人との交際と見なすべきものであるか否かは考えものであるが、この人ばかりではなく、来朝の唐人で禅僧の紹介を持ち実隆に面会を求めた宋素卿のごときもあった。して見ると明人の間にも実隆の評判がいくらかひろがっておったのではあるまいか。
 かくのごとくして三条西実隆は、知己《ちき》を六十六国に有する一代社交の顕著なる中心となり、逍遙院前内府の文名が後の代まで永く歌人の欽仰するところとなり、ややもすれば灰色がちになり自暴自棄に傾かんとしつつあった彼の足利時代の文化に、微なりといえどもいくらか暖かみのある光を投げ得たのだ。本邦文化史上における彼の存在の意義はまさにここにあるべきである。むかし実隆の友なる宗祇の、山吹の花を愛したということは、肖柏の『春夢草』に見える。春の盛りをば飾らぬけれど、さりとてまた一種の趣なきにあらざるその山吹の花のごときは、けだしもって実隆を喩うべきものあろう。



底本:「現代日本思想大系27 歴史の思想」筑摩書房
   1965(昭和40)年1月15日発行
初出:「藝文」京都大学文学部
   1917(大正6)年8月号〜12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)に関して、「三ヶ寺」「三ヶ事」は大振りに、「蝦夷ヶ島」は小振りにつくっています。
※誤植を疑った箇所は初出誌を参照して改めました。
※「観進」は「勧進」の誤植を疑いましたが、初出誌でも「觀進」となっていたので、底本通りとしました。
※「聯絡」と「連絡」、「三分一」と「三分の一」、「坂本」と「阪本」、「径路」と「経路」の混在は底本通りにしました。
※底本中「宵壤《しょうじょう》(天と地と)」のように括弧書きされた部分がありますが、編集者注だと思われるので削除しました。ただし「刀一腰(助包)」は初出にもありますので残しました。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2005年1月5日作成
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